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東京地方裁判所 昭和49年(ワ)6408号 判決

原告

日本共産党

右代表者中央委員会議長

野坂参三

右訴訟代理人弁護士

上田誠吉

外一二名

被告

株式会社産業経済新聞社

右代表者代表取締役

鹿内信隆

右訴訟代理人弁護士

稲川龍雄

外一〇名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

(当事者の求める裁判)

一、原告

1  被告は、その発行するサンケイ新聞、東京本社、大阪本社の朝刊各版通して、全七段抜きで、別紙第二目録記載通りの文章を一回掲載せよ。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

旨の判決

二、被告

主文同旨の判決

(当事者の主張)

原告の請求原因

第一  事実関係

一、当事者

原告は大正一一年七月一五日、わが国の進歩と変革の伝統を受け継いで、平和と真の人民主権に立つ民主政治を目指し、勤労人民をあらゆる搾取と抑圧から解放し、日本に社会主義社会を建設することを目的として設立された政党であり、昭和三六年七月、その第八回党大会において、「日本共産党綱領」(以下「党綱領」という。)を確定し、昭和四八年一一月、その第一二回党大会において、「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」(以下「政府綱領提案」という。)を採択した。原告は戦前・戦後を通じ、度重なる苛酷な弾圧を受けながらも、主権在民の旗を高く掲げ、日本の独立・平和・民主主義・人民の生活向上のために一貫して努力してきたものであつて、本訴の主題である国民の民主的諸権利と自由、殊に言論・表現の自由については、原告は創立当初から日本の諸政党のなかでそのスローガンを掲げて闘つてきた唯一の政党である。

被告は、昭和三〇年二月に新聞発行等を目的として設立された株式会社であつて、日本新聞協会に加盟し、その東京本社及び大阪本社においてサンケイ新聞を発行し、これを販売している。サンケイ新聞は全国にその販売網を有しており、朝日・毎日・読売・日本経済の各紙と共に日本の全国的新聞の一つであり、その発行部数は約二〇〇万部である。

二、被告による本件広告の掲載及び反論掲載の拒否

(一) 本件広告の掲載と反論掲載の拒否

被告は、訴外自由民主党(以下「自民党」、また文脈上明らかである場合には「広告主」、「出稿者」と表現することがある。)の提供により、昭和四八年一二月二日付サンケイ新聞紙の東京本社及び大阪本社の朝刊各版通して、その紙面に別紙第一目録記載の広告(以下「本件広告」又は「本件意見広告」という。)を全七段の大きさで掲載し、これを全国に頒布した。被告は本件広告掲載と共に原告に対し、反論広告の有料掲載を申し入れた。しかし原告は右申入れを断り、同年一二月五日から同月二七日までの間に六回にわたり、本件広告が新聞倫理綱領・新聞広告倫理綱領・サンケイ新聞広告倫理綱領に違反すること等を指摘して、原告の反論文を社会的公器といわれる新聞の発行者である被告の責任においてサンケイ新聞紙上に無料で掲載することを要求し、被告との間に折衝を続けた。この間被告は本件広告が原告に対して反論をサンケイ紙上に掲載することの必要性を生じさせたことを事実上認めながら、あくまでその掲載を有料とすることを固執し続けた。そして同月二七日の第六回目の交渉において、被告は原告の要求する反論文の無料掲載を最終的に拒否したのである。

(二) 本件広告の内容

本件広告の内容は、自民党の提供による「意見広告」としながらも自民党の政策自体については一語も主張しないまま、原告を名指しにして国会・自衛隊・安保条約・国有化・天皇の各問題につき、原告の党綱領に対して政府綱領提案が矛盾していると述べ、即ち後者が前者を事実上ごまかしているとし、この点について「多くの国民は不安の眼で見ています。」、「はつきりさせて下さい。」と原告に回答を求めて迫ると共に、もし原告がこれに回答しないなら、政府提案綱領は「プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎない」ことになるというアピールを行なうものである。

この場合、本件広告の本文が「こんどあなたがたのきめた『民主連合政府綱領』は多くの点で、あなた方の本来の主張である『日本共産党綱領』と矛盾している、と私たちは考えます。」と言つているのは、本件広告の打撃効果を一層大きなものにしている。即ちこれは、権力の座にある自民党が一方的に「私たちは考えます。」として原告の政府綱領提案は原告本来の主張をごまかそうとしていると事実上断じているのである。「革命への足がかりにすぎないのではないか?」などという疑問形の表現や、本文末尾の「国民の多くが、その点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」という文章は、自民党の一方的な断定的「考え」を粉飾、補強したものであり、さらにこれらが「はつきりさせてください。」という回答要求の表現と結びつくことによつて、もし回答しなかつたならば、やはり自民党の断定的「考え」の通りなのだと読者に強く印象づけていくことが計算されているのである。

(三) 党綱領と政府綱領提案

しかし、右のように政府綱領提案が党綱領の主張をごまかしているとする本件広告の内容は、全く事実を歪めたものである。即ち党綱領は、当面の行動綱領を含み、かつ将来の独立・民主の日本、更に社会主義の社会、終局的には共産主義社会までも展望した原告の基本文書であるが、同時に右文書は、一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたつて一致できる目標の範囲内で統一戦線政府を作るために闘うことをはつきり述べている。他方政府綱領提案段階において革新勢力がさしあたつて一致できる目標の範囲内で国民生活防衛と民主的改革を遂行する連合政府の共同綱領についての原告の提案であるから、これはさしあたつての統一戦線政府の政策について、一層具体的に詳しく述べていることはあつても、党綱領に何ら矛盾するものではなく、党綱領の統一戦線政府の規定に合致したものである。本件広告が党綱領に対する政府綱領提案の内容上の矛盾を云々し、後者が前者をごまかしているかのように描いているのは全くの中傷である。本件広告は右の二文書の文言それ自体に手を加えているわけではないが、故意に要点を外し、一連の文章の中から自説に都合のよい一部分のみを引用して原告の主張を歪めたものである。

もとより、原告には右の二文書について国民の目をごまかさねばならないような理由は全くなく、原告はこれら文書相互の関係についても、また本件広告が取り上げた各条項についても、それら相互の関連を、党大会その他公表されかつ報道された責任ある文書において、既に十分に解明してきた。

特に原告にとつて重要なことは、本件広告が現実には存在しない内容上の矛盾なるものを作為し、それによつて政府綱領提案は何ら真剣に追求されている政権綱領ではなく、党綱領の展望する民主主義革命に国民を導くための単なる足がかり、換言すればごまかしに過ぎないとの印象を読者に抱かせるように仕向けていることである。原告にとつて、党綱領と政府綱領提案とは共に国民の前に提示している基本的文書であつて、もし後者が前者をごまかすものであるかのように誤解されるという事態が生じるならば、国民の支持の拡大を政権への接近の基本とする政党としての原告にとつて、国民から寄せられる政治的信頼が著しく毀損されることは避けられない。

(四) 本件広告の特徴

本件広告は正にこの原告の生命線とも言うべき点について、原告には矛盾・ごまかしがあると攻撃したものであり、しかもそれは次の諸点においてきわだつた特徴を有している。

1 全七段の大型であること。

2 「意見広告」といいながら、自民党の政策・政見は「自由社会を守る」というその提供者名に冠せられた短い句の他には一言も書かれていないこと。

3 冒頭に「日本共産党殿」と書いて原告を名指して指定し、原告の党綱領に対して政府綱領提案が矛盾していると称し、しかもその形象として歪んだ顔の大きな嘲笑的イラストまで掲げ、直観的・視覚的アピールによつて原告に対する打撃をより大きくする手だてをとつていること。

およそ広告にはもともと広告戦略・広告目的があり、その目的を果すために訴求テーマが設定され、その訴求テーマを最も効果的にアピールするための手法として、レイアウト・イラスト・ヘッドライン・ボデイコピー等のすべてがテーマを中心に系統立てられ、統合され、テーマを増幅するために使用されるということは広告制作上の常識であるが、殊に印刷媒体においては、広告の訴求テーマを視覚的に、直接に読者の感性に訴えるイラストの持つ効果は決定的である。

本件広告のイラストは、その特徴的な歪んだ顔によつて、「バラバラ、支離滅裂、矛盾、不快、憎悪、侮蔑」の念を呼び起し、「はつきりさせて下さい。」、「多くの国民は不安の目で見ています。」という見出しと結びついて原告の党綱領と基本政策に関する「バラバラ、支離滅裂」等の受けとめ方を増幅するものであつて、本件広告は読者をして、原告への疑惑・嫌忌の念を生ぜしめることを狙つているものである。

4 「はつきりさせてください。」というキヤツチフレーズを掲げることによつて、原告が国民に何かを隠しているかのような印象を誇張すると共に、原告に対して回答を要求していること。

本件広告は、何が「はつきり」しないのか、何が「不安」であるのかということについて明示してはいないが、政府綱領提案は「プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないか。」という広告本文の後段と併せ読めば、本件広告が「不安の目で見ている。」というのは、政府綱領提案が「プロレタリア独裁」へ移行するための踏み台とされるのではないかということにあるのが明らかであり、何故それが「不安の目」で見られなければならないのかというと、それは原告が国民に党綱領と政府綱領提案との関係について嘘をつき、国民をごまかそうとしているからであるということになる。従つて本件広告の冒頭にある「はつきりさせてください。」という大見出しは、明らかに原告に対し、政府綱領提案の目的について「ごまかし、隠し、嘘をついている。」と中傷するものである。

以上のような特徴は、原告が国民を欺いているかのように見せる本件広告の打撃効果を決定的に強めるものであり、少くともサンケイ紙二〇〇万読者の間における原告の政治的信頼を低下させ、そのことによつて国民の支持の拡大を目指す原告の政党としての活動に重大な妨害を加えたことは明らかである。

(五) 無料による反論掲載の要求

更に重大なことは、本件広告は、原告に対して回答を求めていたにも拘らず、被告がその責任と負担において、原告の反論文を掲載することを拒否したことである。既に前述した通り、被告は本件広告が原告に反論掲載の必要を生ぜしめたことを事実上認めながら、それを有料とすることに固執して、無料による反論掲載の要求を拒否した。紙上で回答を要求された被害者である原告が、その損害を回復するための反論掲載に代価を負担することを認めるならば、本件広告のような手段によつて一方的打撃を他に加えることを追認し、合法化することになるばかりでなく、金権勢力による一般新聞の広告支配に手を貸すことになることは見易い道理である。

(六) 反論掲載拒否の持つ意味

本件広告は前記の通り、原告が国民を欺瞞しているかのように断じ、それについて「はつきりさせてください」と回答を求めていながら、被告は原告の反論掲載を拒否することによつて本件広告の打撃効果をそのまま続けさせている。

これは、サンケイ紙二〇〇万読者など国民の側からみれば、国民としての知る権利を奪われていることになる。同時に、原告の反論が掲載されない限り、読者は、本件広告の指摘が的を射ているために原告は反論できないのではないか、つまりは原告自身が政府綱領提案が欺瞞であることを認めたものではないか、との疑問を抱かざるを得ないのであり、これが公党としての原告の政府的信頼を著しく傷つけ、その政治活動を妨害したことは明白である。しかるに被告は、本件広告によつて生じた事態に対し何ら責任を取ろうとしないままに、他方では、サンケイ紙上の大きなスペースを使つて、被告の拒否は言論報道の自由を守るものであり、原告の要求はこの自由を侵害するものであるかのように、原告に対するありとあらゆる非難・攻撃を行なつてきている。これによつて、サンケイ紙読者は、原告が不誠実な政党であるかのような偏見と印象とを、ますます固定化、増幅させられてきている。

言うまでもなく、政党は総て、本来既にその政見・政策を支持している人々に対してだけでなく、未だそれを支持せず、むしろ反対している人々をも政治活動、言論活動等を通じて説得し、一人一人の有権者の具体的支持を取り付けることによつて党勢を拡大し、それを基盤として選挙で議会の多数を占め、政権を得て自から公約した政策を全面的に実現してゆくものである。本件広告によつて、また、それに対する原告の反論を掲載しないことによつて、幾百万の国民の中に原告に対するいわれのない偏見が増幅、固定化されるならば、原告の政党としての言論活動・政治活動が、甘受し難い極めて重大な妨害を受けざるを得ないことは明らかである。

原告はそれなりに有力な政党であるから、サンケイ紙上への反論掲載以外の方法によつてその損害を回復することができるという見解もあり得ようが、本件広告の掲載とそれへの反論の掲載拒否はサンケイ紙読者の間での原告に対する政治的信頼をそれだけ失わせるものであつて、サンケイ紙に対する反論掲載以外の方法でそれを回復することは不可能である。

第二  本件広告について反論掲載を請求する原告の権利

一、一般新聞の多大な影響力とその公共性

(一) 多大な影響力

サンケイ紙を含むわが国の全国紙たる一般新聞は、その発行部数とそれを維持する諸施設・販売網等において他の資本主義諸国にはほとんどその例を見ない発達を遂げている。発行部数については、五〇〇万部を超えるものがあり、サンケイ紙も約二〇〇万部を発行している。これらの新聞は全国民に対する情報の伝達を大きく左右し、紙上の論評は世論の方向にも大きな影響を持つているのが実情である。またいわゆる地方紙の場合も数十万部以上を持つものが少なくない。こうしてわが国の新聞がその発達の度合に照応して強い公共性を要求されていることは当然である。

(二) その公共性

戦後日本の一般新聞は、私企業でありながら、民主主義の発展と深い関りを持つという公共的自覚と規律の上に成長してきた。「新聞が他の企業と区別されるゆえんは、その報道・評論が公衆に多大な影響を与えるからである。公衆はもつぱら新聞紙によつて事件および問題の真相を知り、これを判断の基礎とする。ここに新聞事業の公共性が認められ」る(新聞倫理綱領、第六)。国民の多くは、一般新聞によつて国の内外にわたる情報に接し、政治・経済・社会・文化等の広汎な諸問題についての知識を得る場合がきわめて多く、国民は一般新聞の報道、論評を参考として自己の判断と意見を形成し、主権者として政治に参加する行動の有力な素材としている。ラジオ・テレビなどの普及にも拘わらず、一般新聞のこのような役割は依然として変わつていない。

殊にわが国の一般全国紙の普及率やこれに対する国民の信頼度の高さ、即ち知る権利の充足された事態から見れば、その公共性、社会性は極めて高度のものとなっており、従つてまたそれにふさわしい社会的責任を負担している。

(三) 公正・公平の原則と国民の知る権利

一般新聞は、「つねに、訴えんと欲しても、その手段を持たない者に代つて訴える気概」(新聞倫理綱領、第三)を持つことが要求されると共に、「みずから自由を主張すると同時に、他人が主張する自由を認めるという民主主義の原理は、新聞編集の上に明らかに反映されなければならない。おのれの主義主張に反する政策に対しても、ひとしく紹介、報道の紙幅をさくごとき寛容こそ、まさに民主主義新聞の本領である」(前同、第五)という「公正」が謳われている。「非難されたものには弁明の機会を与え、誤報はすみやかに取消し、訂正しなければならない」(前同、第四)という「公平」が謳われるのも全く同様である。その紙面は、公正・公平であることが強く要求されているのである。

この公正と公平の原則は、一般新聞が国民のために国民の求める知識を提供し、国民の知る権利に奉仕することが要求されていると考えるときに、一層強く要請されていることを知るべきである。「新聞の自由」は「実に人類の基本的人権としてあくまで擁護されねばならない」(前同、第一)。そして、この自由は、更に国民の知る権利に奉仕するものであることが強調されなくてはならない。「新聞の公器たる本質」(前同、第三)とは、一般的新聞の持つこのような公共的性格を表現し、併せてその責任の大きさを指摘したものである。

二、新聞倫理綱領

(一) 新聞倫理綱領等の制定

前述した一般新聞の公共性を担保し、これを維持するために社団法人日本新聞協会は昭和二一年七月二三日、全国の新聞・通信・放送の倫理水準を向上し、その共通の利益を擁護することを目的として設立された。現に新聞・通信・放送等一七二社をその会員に擁し、昭和二一年七月二三日に新聞倫理綱領を、昭和三三年一〇月七日に新聞広告倫理綱領を、昭和四一年一〇月二六日に新聞広告倫理綱領細則をそれぞれ制定し、加盟各社に対しこれらの綱領等に従うことを求めている。

被告もまた他の新聞社等と同じく、これらの新聞倫理綱領等を守ることを約して日本新聞協会に加盟しており、自らもこれらの倫理綱領に基づき、独自にサンケイ新聞社広告倫理綱領等をも定めている。

(二) その規範性

新聞倫理綱領は、一般新聞のあるべき姿を示す、権威のある基準として、言わば「新聞の憲法」とも言うべき存在である。

新聞倫理綱領は、「日本を民主的平和国家として再建するに当たり、新聞に課せられた使命はまことに重大である。これをもつともすみやかに、かつ効果的に達成するためには、新聞は高い倫理水準を保ち、職業の権威を高め、その機能を完全に発揮しなければならない」という文章に始まる。ここには、戦前の新聞が、圧政と侵略戦争に協力してきたことに対する反省が籠められている。この反省の上に立つて、新聞が民主主義と平和の達成に貢献するものとなるための倫理基準を定めたのが新聞倫理綱領であつた。

新聞広告倫理綱領及び細則も、この精神を新聞広告について適用・具体化したものである。これらは一体として、新聞の自由を強調すると同時に、その責任をも明らかにし、一般新聞に要求される公正と公平の原則を具体化している。そこで、これらは同時に報道・評論・広告の許容限度を示す指標、逆にいえばこれを踏み外せば反社会的性格を帯びるものと評価される指標を示している。日本新聞協会が昭和二三年三月一六日に発表した「新聞の編集権に関する声明」も「報道の真実、評論の公正、公表方法の適正の基準は、日本新聞協会の定めた新聞倫理綱領による」として、この理を明らかにしている。

従つて、これら新聞倫理綱領等は、「本綱領を貫く精神、すなわち自由、責任、公正、気品などは、ただ記者の言動を律する基準となるばかりでなく、新聞に関係する従業員全体に対しても、ひとしく推奨されるべきもの」(新聞倫理綱領前文)とされ、記者、編集者はもとより、広告管理者としての新聞社が守るべき活動の基準である。広汎な新聞の読者もまた、一般新聞に掲載された記事、評論及び広告も公正・公平の原則に基づく然るべき基準に照して選択されたものと見ているのである。

かくて新聞倫理綱領等は、新聞広告を含む新聞全体の準拠すべき公序良俗の内容をなしている。

(三) その内容

新聞倫理綱領は、前文、第一新聞の自由、第二報道、評論の限界、第三評価の態度、第四公正、第五寛容、第六指導・責任・誇り、第七品格、後文に分れており、それぞれ先に引用した文章を含んでいる。

新聞広告倫理綱領は、「日本新聞協会加盟の新聞社は『新聞倫理綱領』の精神にのつとり、新聞広告のになう社会的使命を認識して、常に倫理の向上と健全な発達に努め、もつて公衆の信頼にこたえなければならない」とした上で、「三、新聞広告は、他の名誉を傷つけ、あるいは不快な印象を与えるものであつてはならない」と規定する。

新聞広告倫理綱領細則は、「綱領三により次のものは掲載を拒否または保留する」として「(11)名誉棄損またはプライバシー侵害となるおそれがあるもの……」「(13)自己の優位性を強調するために、他を中傷したり、引き合いに出したもの」「(14)事実の有無にかかわらず、一方的・暴露的な内容・目的をもつたもの」を列挙している。

そして被告は、自らサンケイ新聞社広告倫理綱領を定め、「一、サンケイ新聞の広告は常に公正にして真実をつたえるものでなければならない。二、サンケイ新聞の広告は……責任の負えるものでなければならない。三、サンケイ新聞の広告は社会道義……を害したり、また関係法規に反するものであつてはならない。……五、サンケイ新聞の広告は他の名誉を傷つけ・……るものであつてはならない」等と規定している。

三、広告の特殊性

一般新聞における言論の自由と、一般新聞の公共性に伴うその責任との関係を考えるにあたつては、広告の持つ特殊な性格に着目しなければならない。広告は同じ新聞紙上に掲載されるものであつても、報道や記事としての評論とは多くの点で異つた特殊性を有しているのである。

(一) 営業としての広告

まず、広告は、一般報道、記事と違つて、金を払つてそれを紙面に出すことを求める者(広告主)がおり、新聞社は新聞・広告倫理綱領等の精神に基づいて、その掲載の可否を決定する権利を持つている。その上で、新聞社はその紙面を広告主に販売し、その対価として広告収入を得ている。この点でも、広告は報道や記事としての評論とは全く異る性格を持つ。報道や記事としての評論は、新聞社が自らの負担において経費を支出してその制作を行なうのであるが、広告の場合は新聞社は広告主の提供する広告のために紙面を売つているのであつて、新聞社にとつて前者が「支出」であるのに対し、後者は「収入」である。広告によつて広告主は宣伝上の利益を得るが、新聞社にとつてはむしろ主として営業上の利益を得る関係にある。ここに、営業を主とする広告を利用し、新聞の社会的責任を逸脱した「悪徳商法」の生まれる余地がある。つまり、一方で専ら他を中傷する広告を載せて広告料収入を得、他方でこれに反論しようとする広告主から再び広告料収入を得ようとするのがそれである。

(二) 高額な広告料

広告の持つ右の特殊性に関連して、広告という手段で自己の言論の自由を享受しようとする者は、高額の広告料を支払わなくてはならない。つまり、本件広告が示すように、広告における言論の自由とは、極めて高価なものであつて「公器」としての新聞の前述の義務に背いて掲載された広告によつて、攻撃・中傷された被害者は、被害者でありながら被害の回復のためには更に広告料支払いという被害を余儀なくされることになる。これは被害者に対する泣き寝入りの強要であり相手方の言論の自由の事実上の圧殺であるばかりか、読者の知る権利をも侵害するものであつて、そうした事実上の言論の自由の独占は許されるべきでない。

(三) 特殊な宣伝効果

更に、一般広告は、各種マス・メデイアの利用形態の中でも、宣伝効果自体を最も大きな目的とする形態であり、その宣伝目的は、アピールの強さによつて達成される。広告におけるアピールの強さは、通常、抽象や省略等、様々な手法の工夫によつて生み出される。そこで広告の内容は、多かれ少なかれ、言葉や形象によつて直接的に語られている範囲を超えているのが普通である。

これらの点において、一般広告は、例えば事実や思想の表現自体を主とする報道、評論等と異り、表現形態の上で独自の特徴を持つている。即ち一般広告は、明確な宣伝目的の下でそのための各種の素材が組み立てられ、総合的なアピールの統一体として構成されているのであつて、その構成された総体が外部に表現さた広告の客観的な内容となる。

そこでは多くの場合、イラストや図面を用いた総合的効果による直観的・視覚的なアピールに重点が置かれ、その広告によつて攻撃・中傷された場合に、被害者の立場を一層困難にすることに注目する必要がある。

(四) 新聞広告倫理綱領による規制

このような一般広告の持つ特殊性に応じて、新聞広告倫理綱領は「品位を重んじ責任を負える」ものであることを要求し、「他の名誉を傷つけ、あるいは不快な印象を与えるもの」、「虚偽誇大な表現により読者に不利益を与えるもの」の掲載を禁止しているのである。

新聞広告倫理綱領細則が「自己の優位性を強調するために他を中傷したり、引き合いに出したもの」の掲載を「拒否または保留する」という厳しい規制を行なつているのも同様である。他社商品が欠陥商品であつて、自社商品より劣ることを宣伝する広告が実際上許されていないことは、周知のところである。このようにして、新聞広告倫理綱領等は広告が他者の権利や利益を不当に侵害しないための最低の基準を示したものであるが本件広告は、明らかにこの最低の基準にすら違反しているものである。

(五) 商品広告と意見広告

以上のような広告の持つ特殊な性質は、商品広告であると、いわゆる意見広告であることに拘らず、少しも異なるものではない。いずれの場合も、広告の内容をなす商品や意見の優れていることを周知させようとするものであり、しかも他の商品や意見との間に競争関係が存在することを前提にしているからである。新聞広告倫理綱領も商品広告と意見広告とを区別して、後者を例外視する態度はとつていない。

その有料であることからくる特殊性、その視覚的・心理的効果については言うまでもないが、その品位と公正についての社会的要請は、むしろ、民主主義の根幹にかかわる政治的・社会的意見の表明形式としての意見広告においてこそより強いものとみなければならない。とりわけ本件のように、国民の支持の拡大を競い合つている他党に関わる意見広告においては、新聞広告倫理綱領の定めるところに従つて、その品位と公正とがより一層担保されなければならない。それを看過して本件広告を掲載した被告の責任は極めて重大である。

即ち意見広告が現実に果す機能に着目するとき、新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領、各新聞社広告掲載基準その他わが国一般新聞特有の慣行を無視して意見広告の無条件な開放が行なわれる場合、そこには多くの危険性が秘められている。

第一に、意見広告も新聞社の営業活動の一環として行なわれる有料広告であつて、総ての国民に解放されているわけではない。

第二に、右の性質に関連して、結局のところ権力の座にある勢力、資金力のある勢力に買い占められないという保障がない。

第三に、新聞が意見広告を専ら営業活動の角度から重視して、新聞が本来その公共性から報道すべき少数意見を故意に報道せず、「意見広告」として掲載させること、又は中傷的・攻撃的意見広告を掲載させて反論を余儀なくさせたその対象者から再び広告料を取って反論広告を掲載させる等のやり方による「悪徳商法」を歯止めする保障がない。

結局、広告の場合は、新聞社にとつては主に営業の自由に関する問題であつて、言論の自由の適用にあつても報道・論評の自由と全く同列には論じられないのである。

(六) 政党間の論争

政党間の論争に関しては、仮に一方の側に「侮辱・誹謗・中傷的」なところがあつたとしても、他方が自由に選択する方法、手段によつて、「再批判」や「反駁」を行なえばよいのであつて、意見広告についてもその例外ではなく、意見広告に対しては必ず意見広告をもつて答えなければならないという根拠は見い出せない、とする主張も見られるが、こうした主張が現実に成り立たないことは明らかである。なぜなら、特定の一般新聞による意見広告に対しては、同じ新聞による意見広告で答えなければ、その新聞の読者層が固定している現状の下では、「反駁」の効果を挙げることができないからである。

一般の記事、論評における場合と同様、政党の政策や活動についての記事や報道としての論評に誤りがあるときは、新聞社は、自己の責任或いは被害者の請求によつて、訂正や反論、或いは反論の意を表わす報道を掲載することが一般に行なわれているのであるから、特定の政党に紙面を売つて行なわれる意見広告についても、被害政党にそのような方途が保障されていなければならないのは当然である。

四、新聞を巡る現代的状況

(一) 新聞の集中・独占化状況

わが国の新聞は、第二次世界大戦中に言論統制の一環として行なわれた新聞統合を経て、戦後において一層集中の度を強め今日では、世界的にも発行部数の集中度を示している。一九七三年当時日本新聞協会に加盟する一般日刊新聞は全国で九六紙であつたが、七四年下期の状況をみると、朝日・読売・毎日の三大紙で43.9パーセント(スポーツ紙以外の三紙の系列一般日刊紙を入れると四五パーセントを上回る)、サンケイ・日経二紙が8.5パーセント、準全国紙の域に達した中日・北海道・西日本のブロツク三紙で10.3パーセントであり上位八紙だけで実に約六三パーセンとを占めるに至つている。しかもこの独占化状況は今日、激烈な企業間競争を通じて一層進行し、再編されつつあるのであるが、このように高度に集中して巨大化した新聞は、独占資本や政府の利益に傾く体質を強めている。殊に新聞経営上、収入に対する広告収入の比率は既に六〇パーセント台に達しており、新聞企業の経営体質が「広告メディア」としてのそれに移行しようとしているのであるが、政府(巨大なスポンサーとしてその発言力は急伸している。)を含む広告スポンサーの強大化が逆に新聞の独自性の弱体化を招いているのである。

(二) 新聞に対する統制・操作及び国民の権利の侵害

今日では政府や独占資本が新聞に対して直接・間接の影響力を行使した事例や新聞自身が世論操作を行なう事例が珍しくないが、こうした世論操作の有力な手段となつているのが「解禁」された意見広告であり、そこに厖大な政府広報予算や独占資本の資金が投入されているのである。このような意見広告の実態に照すと、意見広告は少数意見の尊重であり、国民の知る権利の保障であるなどという被告の見解が皮相なものに過ぎないことは明白である。独占資本の一方的な意見が、それに反対する立場からの反論の実質的な保障がないままに大量に流されることは、かえつて国民の知る権利を実質的に侵害するものであるばかりでなく、そのような方向で一方的な世論が形成されてゆくことは右意見が誤っている場合を考えると、誠に由々しい事態であると言わなければならない。

(三) 新聞の責任を全うするための方策

前述したような新聞(事態は放送についても同様であるが。)を巡る状況の下で、国民の立場からマス・メデイアの国民に対して負担する責任を全うさせ、社会的に支配的な見解ばかりでなく、少数者の見解にも公平に紙面や時間を割き、正確・公正な報道・評論・広告の提出が行なわれることによつて国民の知る権利が充足され、またマス・コミによつて権利を侵害された者に適切な救済が図られるための諸方策が考えられなければならない。国家権力からマス・メデイアの言論の自由を守るだけでは、マスコミ企業の自由は守れても本来マス・コミが国民から付託された責任を果たすことにはならず、まして国民にとつて言論の自由が確保されたことにはならないのである。

被告は意見広告の「全面開放」を自讃してやまないが、これがあらゆる意見に対して真に「思想の自由市場」をもたらすためには、意見広告の内容・方法・対価・反論保障等にわたる基準の設定が不可欠であつて、それなしにかかる「全面開放」を行なつたために本件広告の如き異常な攻撃広告が掲載され、その広告によつて被害を受けた原告が極めて困難な立場に立たされるという事態が生じたのである。

而してマス・コミにその責任を全うさせる方策として、米国における読者・視聴者のアクセス権、欧州諸国における「新聞評議会」・「放送評議会」制度、新聞編集に対するマス・コミ労働者が批判・参加する権利(新聞の「編集権」)の承認等がそれぞれの展開を遂げているのである。

(四) マス・コミの責任と反論権

マス・コミの責任を全うさせようとする諸方策の中で、対立する意見の相手方や批判・攻撃を受けた者に対して反論の機会を実質的に保障するという方法も重要な役割を果しており、今日のマス・コミの実態の中には対立者・相手方に反論の機会を与えることによつてしか問題を解決し得ないものがあるのである。

被告は、原告の主張に対し、「新聞の自由」を楯にこれを拒否しているが、被告の主張する「新聞の自由」は今日の新聞の独占・集中の状態、国民との矛盾をはらんだ現代状況と余りにかけた離れた古典的自由の主張であつて、今日では到底受け入れられないものである。

またマス・コミを通じて不当な攻撃を受けた者に対する実効的な救済方法が自主的・自律的規範によつて保障されているならこれに勝るものはないが、現状では本件の如く新聞倫理綱領及び新聞広告倫理綱領は自律的規範として十分に機能していないのであつて、これに対して被害者には何らの権利回復も保障されていないと言うのは余りに不合理と言わなければならない。この場合には司法的救済措置をとることによつて侵害を受けた者の権利を回復すべきである。

五、本件広告に反論掲載を請求する原告の権利とその法的根拠(その一)

(一) 言論の自由

1 前述の通り、被告は、本件広告を大きな社会的影響と高度の公共性を有するマス・メデイアの一つであるサンケイ紙上に掲載し、原告に対して、政党としての生命に関わる事項について中傷的攻撃を行ない、更にこれに対する原告の反論掲載要求を拒否して、原告の政治的信頼を傷つけ、原告の事業・政治活動に重大な支障・妨害を与え続けている。このような状況に置かれた原告は、第一に言論の自由(憲法第二一条)に基づき、これに対する反論を同紙上に掲載する権利を有する。即ち憲法第二一条の保障する言論の自由は、ある言論の対象となる相手方の言論の自由をも当然に保障しており、言論の自由の保障とは本来反論の自由の保障を含んでいるのであるが、右反論の権利は攻撃の方法・内容等の特殊性に応じて十分に効果的な反論を行なうことをその内容として有している。

原告の求める反論文掲載の請求は、本件広告が、

① 二〇〇万人の固定読者を有する一般新聞の広告という手段によつていること、

② 原告を名指しにしていること、

③ 原告の重要な基本的政策について、殊更に歪曲した表現を用いて攻撃していること、

④ 原告に対して社会通念上同一紙上での回答を求めるものとみなされる体裁をとつていること、

⑤ もし原告がこの攻撃に反論しないならば、その攻撃にかかる内容が真実であるとの印象を与えるという構成をとつていること、

⑥ それらによつて、原告に対する国民の政治的信頼を傷つけ、原告の政治活動を妨害したこと、

及び被告が、

⑦ 原告が反論することを余儀なくされる地位に立つことを知りながら、敢て前記諸特徴を持つ本件広告を掲載頒布したこと、

⑧ 被告は新聞事業を営むもので、自ら原告の要求している反論文をサンケイ紙上に掲載することによつて、原告の被つた政治的信頼の毀損及び政治活動の妨害を回復・排除することのできる地位にあること、

以上の具体的事実が存する本件の場合には、原告に対する憲法第二一条の保障を全うするには被告に対して別紙第二目録記載の反論文(以下「本件反論文」という。)の掲載を求める以外に、他に有効な手段・方法はあり得ない。従つて原告は被告に対し、憲法第二一条に基づいて直接、本件反論文の掲載を請求し得るものである。

2 また、原告に右のような権利を認めるべきことの合理性は、国民の知る権利を保障するという実質的見地からも強く支持されるものである。公共の事項について、一方的な攻撃・中傷のみが一般新聞の紙面に掲載され、これに対して攻撃・中傷を受けた側の反論掲載の権利が認められないならば、国民の知る権利が保障されたとは言えないばかりでなく、むしろ一方の見解のみの片面的流布だけが許されるという意味で知る権利は踏みじられたままとなる。国民が一般新聞の紙上において、他方の見解をも公平に知ることのできる場合にのみ初めて知る権利は保障されたものと言うことがきるのである。

更に一般新聞は公正、公平に報道・評論を行ない、広告を掲載する義務を負つている。もし一方的に第三者を攻撃・中傷する紙面を作つたときは、攻撃・中傷された側の反論をも公平に紙面に掲載する義務を負う。それは公正と公平の原則の要求するところである。殊に本件広告の場合、被告は原告に対して不当な中傷・攻撃を行ない、原告を名指してその回答を求めたものであるから、本件広告に対する反論の機会を原告に与えるべき公正・公平の原則上の根拠はより強度のものがあると言うべきである。

右の国民の知る権利及び公正・公平の原則は、言論の自由の憲法上の保障の内容をなし、原告の反論掲載請求権を強く支持しているものである。

(なお、被告は憲法第二一条に基づいて公正・公平に「国民に知らせる義務」を負つており、本件の場合には原告に対してその請求に応じる義務を現実に負担しているのであるから原告の本訴請求は国民を代位又は代表するものではない。)

3 憲法第二一条は原・被告間においても直接に適用があるものと解すべきである。従来自由権的基本権の保障が専ら国又は公共団体との関係で考えられてきたのは、国民の資本主義的階級分化が今日と比較して全く進んでいなかつた頃、基本権を侵害する虞れのあるものとして専ら国家権力がその対象として考えられていたことの残映であり、今日では国家権力にもまして国民の基本権を侵害する虞れのあるものが続出している。言論の自由の考察にあたつてもこの視点は重要であつて、マス・メデイアの表現の自由を国家権力の圧迫から守るという側面は依然として重要であるが、現在ではそれだけでは不十分であり、国民が適切な知識・情報を得てこれに基づいて自己の意見を発表することができる自由、即ち国民の言論・表現の自由を確保することも、同時に強く望まれているのである。

更に憲法第二一条の保障する表現の自由は、国民主権と議会制民主主義の下において、とりわけ重大な政治的権利としての性格をもつているのである。主権者である国民は一方において自らの意思を政治に反映させるために「表現の自由」を保障されなくてはならないが、同時に他方において、自らの意思を形成するためにあらゆる情報・知識を受け取る権利(「知る権利」)をも十分に保障されなくてはならないのであつて、これら両面の権利が保障されていることが憲法の予定する政治的民主主義の不可欠の前提である。従つて憲法第二一条は、国民主権下の国政参加と必ずしも直接に関連しない他の自由権的基本権に関する諸条とは異なる性格を持つのであつて、同条が直接に国民相互の間にも適用があると考えることは憲法の予定する政治的民主主義にとつて必要であり、かつ合理的である。

なお原告は、国民の中にその政治的支持を広めることに努めつつ、原告を支持する多数国民の政治的意思を、直接に政治過程の中に持ち込むことを任務とする政党であるからその保有する表現の自由は、政治的権利としての表現の自由の典型的なものとして、憲法上特に高度の保障が与えられるべきものである。

かくして憲法第二一条は、一方で原告の反論権を含む表現の自由を保障し、他方で被告に対して国民の知る権利に奉仕すべき義務を負担させたものである。

4 以上のことについては、ヨーロツパ各国における応答権(反駁権)の立法例もまた参考に供せられるべきであろう。

新聞・放送・雑誌等いわゆるマス・コミ的情報手段に対し極めて弱い立場に置かれ、民事・刑事の訴訟手続による救済が必ずしも適切なものとなつていない実情に鑑み、フランス・ベルギー・イタリア・ドイツ等では、利害関係者自ら執筆した反駁文の掲載を求める権利、即ち応答権(反駁権ともいう。)を立法によつて認めている。

フランスの一八八一年七月二九日新聞紙法によれば、新聞又は定期刊行物に指名又は指示された者に対し応答権が認められるとする。権利者は個人であると団体であるとを問わず原文記事は、論説・報道・広告等その性質をを問わない。反駁文が、①原文記事と関連のあること、②法令及び良俗に反しないこと、③第三者の正当な利益を侵害しないこと、④新聞記者に対する名誉毀損にわたらないこと、⑤権利の放棄がないことなどの制限に反しない限り、新聞紙等は、反駁文の受領から三日以内に、無償で、全文を掲載しなければならず、これを拒絶した場合は、判決による強制・損害賠償・刑事罰を受けることになる。

西ドイツでも新聞法により、応答権が認められており、定期刊行物の編集者は被害者の請求に応じて、報道された事実に関する訂正文を原文のまま掲載すべき義務ありとされている。

5 わが国においても、現行法体系の中で、新聞等により被害を受けた者が反論を掲載する権利を取得する可能性を全く否定する法的根拠はない。

マス・コミ的情報手段がかつてなく発達したわが国の現状において、その誤報・誤解、故なき非難等から個人の言論の自由・名誉・信用等を保護すべき必要性は今日では極めて大きなものとなつている。

わが国の旧新聞紙法(明治四二年)第一七条は、「新聞紙ニ掲載シタル事項ノ錯誤ニ付」き、「其ノ事項ニ関スル本人又ハ直接関係者」が「正誤又ハ正誤書、弁駁書掲載ヲ請求」しうるものとしていた。マス・コミ的情報手段の発達が今日ほどでなく、また、個人の自由が尊重されない非民主的な旧憲法の下ですら、これだけの権利が謳われていたのである。新聞紙法は、全体として、言論抑圧機能の強い、言論の自由に反するものとして、戦後になつて廃止された。しかし、言論の自由と並んで個人の人格的権利を尊重するわが憲法の下で、旧新聞紙法上の応答権(正誤権といわれていた。)については、その意義を再評価する声が高まつているのも当然である。

現行法としては、放送法第四条第一項が「放送事業者が真実でない事項を放送したという理由によつて、その放送により権利の侵害を受けた本人又は直接関係人から、放送のあつた日から二週間以内に請求があつたときは、放送事業者は遅滞なくその放送した事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送した放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で訂正又は取消をしなければならない」としているのが、注目される。

新聞倫理綱領「第四」が「非難されたものには弁明の機会を与え……なければならい」と規定しているのは、マス・コミ的情報手段自らが、被害の回復に最適な手段は反論の機会の提供であることを認めているからにほかならない。

こうしてみれば、本件のような具体的事例においては、反論の機会を与えるべき実定法的根拠は十分に存在するものと言わなければならない。

6 なお掲載請求にかかる反論文については、それが反論としての内容と節度を持つ限り、裁判所において変更を加えることは許されないと解すべきものである。

(二) 人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権

人格権とは、それによつて保護される人格に関わる利益が損害賠償で填補されるだけでは足りず、その性質上当然に原状回復を必要とするために作り出され、発展してきた権利であるから、人格権侵害についても、単に不法行為上の金銭賠償・回復処分に留らず、差止請求権(これは、侵害行為の事前抑制である妨害予防請求権と持続する侵害行為の停止・除去を求める妨害停止・排除請求権との総称であり、その法源は結局のところ条理に求められるべきものである。)を認める必要性は極めて高く、かつその実効性も大きい。

また本件広告掲載後、被告が原告に対して反論文広告の積極的な誘引をしたこと、被告は原告との全交渉過程を通じて原告のサンケイ紙上での反論の必要性を認めていたこと及び原告が本件反論広告を必要とするに至つた具体的事情を考慮すると、一方では民主主義社会の死活に関わる言論の担い手を自認する公器たる被告としてあくまで原告に広告費用の負担を求めるのは著しく不相当であることが明白であり、他方では自民党による意見広告の金権支配と低劣な中傷広告を既成事実として認めるが如きは国民の基本的自由尊重の観点から到底許されない。科学的社会主義の政党である原告としては、傷つけられた政治的信頼を回復する民主的な方法は無料による反論文の掲載以外にないことが明らかであるから、名誉毀損の成否に抱らず、人格権及び条理の存在と働きによつて本件反論文の掲載の必要性及び正当性が承認されるのである。よつて被告は、人格権と反論権の条理との相重なる部分に成立した義務によつて、原告の反論文掲載申込に応じてこれを無料でサンケイ紙上に掲載しなければならない。

六、本件広告に反論掲載を請求する原告の権利とその法的根拠(その二)

(一) 名誉毀損の成立

公党としての原告は、その政治活動を通じて国民一人一人の政治的支持を拡大し、やがて国会で多数を得て政権を獲得し、その政策を実現することを使命として活動している。この場合原告の掲げる諸政策に対する国民の信頼こそは、一切の政治活動の基礎をなすものである。

本件広告の掲載は、被告の故意又は過失によるものであつて、国民に対する誠実をその生命とする原告に対して、あたかもその基本的政策が国民を欺瞞するものであるかのような中傷を流布し、加えて原告の反論掲載の要求を拒否することによつて、この中傷効果を固定させ、原告に寄せる国民の政治的信頼を傷つけ、政治的偏見を増大させ、その政治活動(政治的信頼とは政党である原告に特有の名誉であるが、政治活動は広く国民の政治的信頼を得るための諸活動を含むから、政治的信頼の毀損は同時に政治的活動の妨害に該るものである。)を著しく妨げている。

新聞記事による名誉毀損の成否については、記事の意味内容だけでなく、読者に与える印象をもその判断基準とすべきであるが、本件広告は、そのイラスト・ヘツドライン・ボデイコピー等を総合的に勘案すると、広告目的と訴求テーマにおいて、党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があり、特に後者が前者をごまかしており、原告の主義・主張・政策は支離滅裂であることを事実として摘示し、更に原告への不安・疑惑・嫌忌の念を生じせさる効果を狙つていることが明白である。

被告が本件広告を掲載頒布したこと及び反論文の無料掲載を原告に対して保障する意思なくして本件広告を掲載頒布したことはいずれも不法行為を構成するから、原告は毀損された政治的信頼と、それによつて妨げられた政治活動上の損害を回復するに最も適切な処分として、民法七〇九条、第七二三条に基づいて請求の趣旨記載の判決を求める。政党としての原告の政治的信頼と政治活動に加えられた損害を回復するためには、反論の掲載は最も適当な処分であつて、他にこれを回復する方途はない。

(二) 「公正な論評」について

被告は英米法上の「公正な論評」の法理の援用を主張するが、彼我の国情の相違、殊にそれぞれの政治と社会における言論状況、新聞の持つ役割の差異を抜きにして実定法上の解釈にこれを無批判は導入することはできないのである。

「公正な論評」が名誉毀損の免責事由として認められるためには、まず第一に、論評・意見・批判の前提となる事実が少なくともその主要部分において真実でなければならず、かつその真実性の証明責任は加害者たる新聞等報道機関が負うとすべきである。

第二に、当該論評が公共の利害に関する事項又は一般民衆の関心事であるような事項に関しており、かつその論評が正当な目的の下に、公正に行われたものでなければならない。

本件広告に即して言えば、広告提供者である自民党の政策・意見を殆ど全く明らかにしないまま、原告には矛盾やごまかしがあると一方的に攻撃したものであり、そのことによつて、自然人における人格にも比すべき、原告の存立の基礎である政治的信頼性そのものを中傷し攻撃したのであるから、もともと「公正な論評」によつても、名誉毀損の免責を受けられる場合に該らない。

第三に、論争批判の内容や表現方法が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的で社会通念上是認され得ないものであつてはならない。これに論評が公正であるということの、論評の仕方そのものに内在する当然の制約である。

本件で問題とされる政党間の論争批判について言えば、それが民主主義の根幹に関わる政治的・社会的意見の表明であり、何よりも国民に対する政治的責任を最も真摯に果すべきことが政党の義務であるから、その論争批判の仕方にこそ、品位と公正が一層要求されなければならないのである。

政党間の論争批判が不可避的に痛烈辛辣であり、時に穏当を欠く内容と表現に陥り、誇大・侮辱・誹謗・中傷的に走り易いものであることを仮に容認するとしても、事実を全く偽り、又は殊更に歪曲し、いわれのない中傷に終始するような表現が許されてよいわけはなく、「公正な論評」の適用が意見広告や、政党間論争を直ちに免責するかのような議論は誤りである。

(三) 「現実的悪意」について

被告の主張する「現実的悪意」の法理も米国法に由来するものであるが、これはあくまでも名誉毀損の免責事由とその証明責任の分配に関するものであつて、名誉毀損の成立要件そのものをこれに従つて狭く解することは誤りである。

ところで「現実的悪意」の法理が「新聞の自由」を高めたとしても、重要なことは名誉毀損を受けた被害者を救済するに当つて、それが真に公正・公平の原則に一致するかどうかということである。日本における新聞の集中・独占化状況を考慮すれば、「現実的悪意」の法理を無批判に導入することは、直ちに、新聞による専制とそれによる言論の自由の圧殺をもたらし、なかんずく意見広告の「全面解放」は、「悪徳商法」の無制限な跳梁を招くことになりかねないし、どのような名誉毀損に対しても、これを救済すべき権利の主張が殆ど許されないとすれば、そのこと自体言論の自由の全き否定である。

米国とは事情を全く異にするわが国の法理論として「現実的悪意」を直輸入することは甚だ問題であり、本件の如き政党間の論争についてまで名誉毀損成立の要件を緩和するとしたら政党間の論争は泥仕合に陥る危険がある。「現実的悪意」を当然の法理となし、本件広告の場合に適用しようとする被告の立論は一般的にも決して承認されたものではない。

第三  結論

本件は、社会的・公共的責任を持つべき被告が、新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領等に違反し、長期にわたつて政権の座についている自由民主党の一方的な他党攻撃及び回答要求の広告を掲載した上、名指しで攻撃された側の回答反論の掲載を拒否し続けているという特異なケースである。これに対して原告が本件で求めているのは、同一スペースにおける節度ある反論文の無料掲載に過ぎないのであつて、その合理性・合法性は明白である。万一かかる最少限度の権利救済すら認められないようなことがあれば、わが国言論界に金権勢力による低劣な中傷広告の氾濫をもたらすことは必至であり、言論の自由と民主主義にとつて由々しい事態と言わなければならない。

よつて原告は第二の五項及び六項記載の事由に基づき、被告に対し、別紙第二目録記載の通りの反論文の掲載をなすことを求める。

請求の原因に対する被告の認否及び反論

第一  「事実関係」について

一  第一項中の原告に関する部分のうち、原告が政党であること、昭和三六年七月、その第八回党大会において党綱領を確定したこと、昭和四八年一一月、その第一二回党大会において政府綱領提案を採択したことは認め、その余は不知。

被告に関する部分はすべて認める。

二(一)  第二項(一)のうち、被告が自民党の提供により、昭和四八年一二月二日付サンケイ新聞紙の東京本社及び大阪本社の朝刊各版通して、その紙面に本件広告を掲載し、これを全国に頒布したこと、本件広告掲載と同時に原告に対し、反論広告の有料掲載を申し入れたこと、原告は右申入を断り、同年一二月五日から同月二七日までの間に六回にわたり、本件広告が新聞倫理綱領・新聞広告倫理綱領に違反することを主張して原告の反論文を社会的公器である新聞の発行社としての被告の責任においてサンケイ新聞紙上に無料で掲載することを要求し、被告との間に折衝を続けたことは認めるが、その余は争う。

被告は原告に対し原告との交渉の席上で、被告は意見広告を憲法第二一条の精神に則つて開放したもので、被告が新聞倫理綱領に基づいて設けた意見広告掲載基準と同運用規則とに合致する限り、編集方針に反するものであつてもこれに対して門戸を開いていることを説明した上、原告の発表する反論の記事報道、反論意見広告に対する料金の弾力的運用等の提案を行なつたにも拘らず、原告は被告の提案及び説明の一切を拒否して、終始「原告の反論を無料で掲載せよ。」との要求を固執し、そのため前後六回に及んだ折衝は成果を挙げなかつた。そして原告は右折衝の最終回となつた昭和四八年一二月二七日に、一方的に「被告及びその系列の新聞・雑誌等の一切の取材を今後拒否する。」と通告してきたのである。

(二)  同(二)のうち、本件広告が意見広告である点、本件広告が国会・自衛隊・安保条約・国有化・天皇の各問題を列挙していること及び原告引用通りの記載があることは認めるが、その余は争う。

本件広告に対する被告の意見は後に述べる。

(三)  同(三)のうち、党綱領及び政府綱領提案がいずれも原告の基本文書であることは認めるが、その余は争う。なお党綱領のうち、原告引用部分の記載は「一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたつて一致できる目標の範囲内でも、統一戦線政府をつくるために云々」である。

なお原告が政府綱領提案を発表した後、その党綱領との関係について、新聞・雑誌や他の政党がこれを批判していたことについては後述する。

(四)  同(四)のうち、本件広告が全七段の大きさである点、イラストがある点及び原告引用通りの記載のある点は認めるが、その余は争う。

本件広告の内容は、次の四つの部分から構成されている。まず第一に政府綱領提案において示されている政策のうち、国会・自衛隊・安保・国有化・天皇制という最も基本的な五項目について引用摘示した対照表の部分、第二に右事実を基にして「多くの国民は不安の目で見ています。」との見出しのもとに、本件意見広告提供者の意見を主として述べた部分、第三は「前略 日本共産党殿」「はつきりさせてください」としている冒頭の見出しの部分、第四はイラストの部分である。

しかしこれらの事実の陳述ないし意見の開陳は、何ら名誉毀損を構成するなど不当なものではない。

まず前記第一の部分は、党綱領及び政府綱領提案から要点を正確に引用摘示したもので、虚偽の部分は全く含まれていない。

次に第二の部分は、前述の五項目について党綱領と政府綱領提案に相違があることを前提として、右相互間に「矛盾」があるのではないかという出稿者の批判的意見を開陳したものである。その頃政府綱領提案について疑問・不安を表明した新聞等は少なくなかつたのであるから、本件広告中の「多くの国民は不安の目で見ています。」「国民の多くがその点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」とある部分も当然の事実と意見を述べたもので何ら問題とされる余地はない。右意見の開陳が批判・論評として原告にとつて不都合なものであつたとしてもこれは批判的意見の性質上当然のことであり、後述する「公正な論評」や「現実的悪意」の法理に照して名誉毀損の成立が問題となる余地はない。公共的な動機・目的で公共的な事項を論ずる限り、右のような表現活動はこれを意見の開陳として法的責任の問題に関わらせることなく自由な応酬に任せ、内容の当・不当は聴き手・読み手の自由な判断に委ねるということが望ましいからである。

更に第三の部分は、「前略日本共産党殿」「はつきりさせて下さい。」という表現を使つているが、これは本件広告による出稿者の批判的意見の内容とその狙いを強く訴えるための一種の表現方向として冒頭の見出しに用いたものに過ぎず、従つて原告が主張しているように原告に対して回答を要求しているものでもない。

最後にイラストの部分であるが、これは見出しの部分と共に読者の注意を惹起し牽引する効果を目的とするいわゆるアイ・キヤツチヤーであり、原告の主張するような意味を有しているものではない。

(五)  同(五)のうち、被告が原告の求める反論文の無料掲載を拒否した点は認めるが、その余う。

(六)  同(六)のうち、政党は本来既にその政見・政策を支持している人々に対してだけでなく、未だそれを支持せず、むしろ反対している人々をも政治活動、言論活動等を通じて説得し、一人一人の有権者の具体的支持を取りつけることによつて党勢を拡大し、それを基盤として選挙で議会の多数を占め、政権を得て自ら公約した政策を全面的に実現してゆくという性格を一面として有していることは認めるが、その余は争う。

第二  「本件広告について反論掲載を請求する原告の権利」について

一、「一般新聞の多大な影響力とその公共性」について

(一) 同(一)のうち、新聞が情報の伝達の上で大きな役割を果し、またその論評が世論の動向に大きな影響力を有し、公共性を要求されていることは認め、その余は争う。なお発行部数については、他の資本主義諸国にもわが国の全国紙に匹敵するような数百万部の部数を有している新聞が珍しくない。

(二) 同(二)は認める。

(三) 同(三)のうち、新聞倫理綱領に原告主張通りの文言のあることは認めるが、その余は争う。

なお新聞倫理綱領に対する被告の意見は後述する。

二、「新聞倫理綱領」について

(一) 同(一)のうち、社団法人日本新聞協会が昭和二一年七月二三日に設立されたこと、これは全国の新聞・通信・放送の倫理水準を向上し、その共通の利益を擁護することを目的とするものであること、これに一七二社が加入していること、原告主張の日時に新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領、同細則がそれぞれ制定されたこと、被告が新聞倫理綱領を倫理的基準として守ることを約して同協会に加盟していること及び被告が新聞倫理綱領を基準として独自にサンケイ新聞広告倫理綱領・広告掲載基準・意見広告掲載基準・意見広告掲載運用規則を定めていることは認めるが、その余は争う。

(二) 同(二)のうち、新聞倫理綱領が新聞の倫理基準であること、同綱領に原告引用通りの文言のあること、新聞広告倫理綱領及び同細則が新聞倫理綱領の精神に則つて作成されたこと、これらが新聞の自由と責任について規定していること、日本新聞協会の原告主張の声明に原告主張通りの文言のあることは認めるが、その余は争う。

(三) 同(三)は認める。

しかしながら原告の新聞倫理綱領に関する主張は、その性格を誤解したものである。新聞業界は、その国民に対する重大な使命とこれを濫用した場合の危険を自覚する一方、その自由は憲法第二一条によつて最大限に保障されなければならず、他人による抑制を到底甘受し得ないところから、自己抑制の機関として日本新聞協会を設立し、また「新聞が高い倫理水準をもち、職業の権威を高め、その機能を完全に発揮すること」を目的として新聞倫理綱領を制定したのである。即ちこの綱領はその名の通り法規範たる性質を有するものではないし、また業界として、自己を束縛する法規範を制定する筈もない。更に目本新聞協会への加盟は任意であつて法律上強制されないものであり、現に非加盟の新聞社も存在することから見ても、同綱領を法規範と解するのは無理である。而して広告倫理綱領はその精神に則り、また同細則に実務上の手引・指標として制定されたものである。

三、「広告の特殊性」について、

冒頭部分の主張は争う。

(一) 同(一)のうち、広告には対価を支払う広告主が存在すること、新聞社は広告掲載可否の決定権を有すること、広告掲載の対価として広告収入を得ていることは認め、その余は争う。

原告の主張は、いわゆる商品広告についての十分な理解を欠くのみならず、意見広告を単に広告の面においてのみ把え、後述する通り、意見広告が本質的に商品広告とは別個のものであることを全く理解していないことを示したものである。

(二) 同(二)は争う。原告といえども本来の意見広告自体無料にせよというわけではないと解されるが、その「高額」という基準がそもそも曖昧である。一般に新聞の広告料金はビラ・チラシ・ダイレクトメール等他の印刷物による広告料金に比較してその一人あたりのいわゆる訴求コストはもつとも低廉であるだけでなく、電波媒体・雑誌等と比較しても、広告主はその掲載スペースや掲載地域等を自由に選択し得ることによつて、絶対額においても極めて少ない費用で広告を掲載し得るのである。

のみならず被告は、意見広告の趣旨に鑑み、その料金基準は、この種の広告に対して新聞業界で通例とされているいわゆる基本料金(臨時もの料金)を適用せず、そのほぼ半額に当るいわゆる契約料金(営業もの料金)を適用し、広くその「場」を開放しているのである。従つて被告としては、少数意見に対し紙面の閉ざされていた従来の新聞と比較して、これを「開放」と呼ぶことに躊躇を感じないのである。

(三) 同(三)も争う。

(四) 同(四)のうち、新聞広告倫理綱領及び同細則に原告主張の文言のあることは認めるが、その余は争う。新聞倫理綱領及び同細則の性格については前述した通りである。

(五) 同(五)は争う。本項末尾に述べる通り、意見広告は表現の自由の一環として報道・論説・論評等と等しく憲法第二一条の保障を受けるものである。

(六) 同(六)も争う。

意見広告に対する被告の基本的姿勢は以下の通りである。

(イ) 民主主義はあらゆる意見の自由な表明を認め、寛容の精神に立脚するところがその基本的な特徴であるが、民主主義を否定するものに対しても寛容であるために自らを滅ぼす可能性を秘めていることを否定できない。新聞に対し最大限とも言うべき自由が与えられてきたのは正にこの民主主義を守るためであり、「新聞の自由は人民の自由の尺度」にほかならないのである。従つて不当な圧力を排除し、自らの自由を守り抜くことは新聞の責任である。その帰結として新聞は常に自由に報道・解説・論評を行なわなければならず、またあらゆる意見に対してその表明を可能にすることがその義務となるのである。

被告が意見広告に対して全面的に開放する姿勢をとるに至つたのはかかる新聞の使命を深く自覚したためであり、あらゆる意見に表明の機会を与えることが民主主義の進展に資すると考えたためである。被告が、その編集姿勢とは関係なく、これに反するものであつても、意見広告としての掲載を認めることにしたのは、第一にはすべての意見に対する寛容への「誓約宣言」であり、第二には新聞社といえどもその総ての言論に無謬性を有するとは決めつけていないからである。

そうすることによつて意見広告は国民のいわゆる「知る権利」を一層拡大させる可能性を持ち、開かれた社会の自由な新聞の使命を果すことになるであろう。

さて意見広告開放にあたつて被告は、新聞自身に対する批判と共に政治批判・政策論争をその内容とする政治的意見広告に大きな期待をかけてきた。現に政権を担当している政党、将来政権を担当するかも知れない政党に対する批判、それら相互間の論争は正に国民の最大関心事であり、それらがそのままの形であまねく国民に知らされるところに政治的意見広告の意義があるのである。

他方、マス・コミの前にはほとんど無力に等しい個人の権利を侵害する、又はその虞れのある意見広告には、表明の場が与えられるべきではない。意見広告の自由は、公共の利害に関する事項或いは一般市民生活に関係のある公共的関心事についての批判・論評の自由として認められるべきものであつて、個人の私生活の暴露や、人身攻撃を許すものでは断じてない。

(ロ) 意見広告の開放は思想に対する一つの自由な市場の開設であるが、現代のように多くの価値観が対立錯綜し、個人・団体間の対立が激しく、複雑多岐な様相を呈している時代にあつては、人類は自己の意見・信条・思想等の表明の必要に迫られ、また他人の意見・思想を知り、これを学ぶべき必要に迫られているのであるが、意見広告は正にこのような実際的要請に応えるものである。

而してこのような思想・主義・論評等を主たる内容とする意見広告は、広告という形態をとるものではあるが、その内容をなす表現の性格は新聞の報道・論説・論評・寄稿・投書等と本質的に異なるものではなく、これらと同様に新聞の自由の範疇に属し、憲法第二一条の保障を受けることは当然である。なかんずく政治的意見広告は、政治的意見の表明が表現の自由の中心的位置を占めることからも、またこの広告が政治に関する世論の形成に寄与することからも、その自由は最も尊重されなければならないのである。

(ハ) わが国において意見広告が本格的に意識され始めたのは、いわゆる「べ平連」が昭和四〇年、ニユーヨーク・タイムズ紙上にベトナム反戦の意見広告を掲載して以来のことであるが、昭和四三年、訴外日本経済新聞社が初めて「意見広告」という表現を用いてこれを掲載することを明らかにし、その後、読売新聞社、毎日新聞社、朝日新聞社と続いたのである。しかしこれらの殆どは、「社是ないし編集方針に反しない限り」という条件附きで意見広告の掲載に応じていたのであるが、社の姿勢や編集方針に関係なく初めて全面的開放したのが被告である。被告はまず昭和四五年一〇月にわが国最初の本格的な宗教広告に紙面を開放し、次いで昭和四八年九月、意見広告掲載基準及び運用規則を制定して初めて全面的開放に踏み切つた。

サンケイ新聞意見広告の特徴は、第一に被告の編集の姿勢・立場とは関係なく、総ての個人・団体のどのような主張・意見についてもこれが責任ある発言である限り広告欄を開放して自由に意見を述べる機会を提供することであり、第二に被告の記事・論評との混同を避けるため「意見広告」である旨の表示を冠することであり、第三に意見広告掲載にあたつて「この広告は意見広告です。」に始まり、右の第一と同旨の注意書きを同時に掲載することであり、第四に意見広告の掲載については社内に掲載基準委員会を設けて検討することにしたことであり、第五に意見広告についてはこれが民主主義の発展に望ましいとの考えからその料金を通常の場合より割安にしたことである。

被告は意見広告全面開放の精神に則り、以上の方針に基いて、その後は他社が躊躇する意見広告も敢て掲載して現在に至つているのである。

四、第四項「新聞を巡る現代的状況」は総て争う。

原告の主張する「新聞の集中・独占化状況」は原告独自の見解である。原告の主張は全国五大紙といわれる朝日・読売・毎日・サンケイ・日経を一括して論じたものであり、サンケイ紙の集中・独占化状況ではない。サンケイ紙の場合には「独占」をもつて非難されるべき何ものもないのである。

わが国には日本新聞協会に加盟しているものだけでも一〇〇を超える日刊新聞が存在しているし、読者の新聞併読率も諸外国に比して高いのであるから、読者(国民)はその好む新聞を自由に選択し、比較して読むことができる状況下にあるのである。全国的な一般新聞の持つ現実の影響力は確かに顕著であるが、国民は新聞の購読にも、その内容の採否にも自由な選択権を有しているのであるから、わが国における印刷メデイアは全国レベルでは「寡占」状況にあるが、この「寡占」は物理的な排他性を持つような一般商品市場の寡占状況とはかなり異質のものである。従つて既成の新聞の強大な力を過度に強調することは、国民一人一人の持つ批判力を不当に軽視し、侮辱するものである。

五、「本件広告に反論掲載を請求する原告の権利とその法的根拠(その一)」について

本項の主張は総て争う。

(一) 言論の自由と反論文掲載請求権

1 原告の本訴請求は被告に対して反論文掲載という一定の作為を求めるものであるから、これを請求する権利は私法上の請求権として構成することのできるものでなければならない。原告は憲法上の言論の自由を援用するが、憲法は本来公法関係を規律するものであつて、私法的な実定規範たる性格を有しているものではない。殊に憲法第二一条の言論・表現の自由の保障は国家がこれを侵害してはならないという自由権を保障したものである。従つてこれから直ちに一般新聞事業を営む被告に「国民に知らせる義務」が出て来ることはないし、仮にかかる義務が生じるとしてもそれはあくまで一般新聞事業者の公法上の義務ないし社会上の義務にとどまる。

憲法上の人権規定が直接私人間の法律関係に適用されることがないのはその歴史的沿革に照して明らかであるし、また仮に人権規定にこのような効力を認めると、公法と私法の区別が否定され、私的自治の原則が破壊されることになり、その妥当性は到底認められないものである。

ところで原告が本訴で請求しているような反論文掲載請求権がたやすく認められるならば、広告のみならず通常の報道・論説も性質上当然その対象となるのであろうから、憲法が新聞に認めた報道・表現の自由は重大な脅威を受け、ひいてわが国における自由の発展にも深刻な影響を及ぼすことになるであろう。更に原告が訴求している反論文掲載請求権が裁判所によつて認められるならば、司法権による恣意的立法の問題も生じかねない。

2 原告の請求している反論掲載請求権につき、これを私法上の請求権であるとする以上、発生時期、履行時期等その内容が具体的に主張されるべきであり、被告の義務の内容及びこれが憲法第二一条から導出される経過が明確にされなければならない。しかるに原告のこの点に関する主張は全く不明確である。

3 原告は被告の本件広告掲載以来、これに反論しようと思えばいつでも自由にできる立場にあつたのであつて、これは現在でも同様である。かかる自由を無視して何故被告のサンケイ紙に同一スペースの反論文を無料で掲載し、かつその頒布を請求し得る権利を取得するに至るのか、この点に関し、原告の主張は全く合理的説明を欠いている。

4 原告は、特に政党については表現の自由に関して憲法上特別の高度の自由が与えられると主張するが、これは誤りであると共に甚だしい思い上りである。憲法は政党の有する表現の自由について特に高度の保障をしているわけではなく、この点では政党も一私人も同じであり、私人相互は常に対等、平等な基本的人権の享有者ないし担い手であるとするのが憲法の原則であるからである。

なお原告の主張する「国民の知る権利と意見広告」に関連して、左記の通り附陳する。

1 自由社会における新聞はその果すべき使命に鑑みて私企業として運営されざるを得ないのであるが、前述の通り新聞の広告料金は原告の主張するような高額なものではない。広告主は掲載スペースや掲載地域を自由に選択し得ることによつてその掲載料金を適宜調節できるのである。更に被告は意見広告開放の趣旨に鑑み、その広告料金を基本料金のほぼ半額として広くその場を開放しているのである。

原告は意見広告について「金権勢力」や「悪徳商法」を云々するが、わが国のマス・メデイアがたやすく「金権勢力」に「買い占められ」るほど無節操である筈がなく、原告の主張は現実を無視し、日本のマス・メデイアを侮つた立論である。

2 原告はその主張する「国民の知る権利」、「国民の知る権利に奉仕すべき義務」がいかなるものであるか、その内容について具体的に説明していない。しかしながら「国民の知る権利」は裁判によつて強制できる筈のものではないし、新聞に「国民の知る権利に奉仕すべき義務」があるとしても、これは新聞がその本質的使命に基づいて自ら自己に課した社会道義的な義務であり、しかもこれは報道機関と国民との間の関係であるから、これに原告が横合いから関与すべき理由はないのである。

3 わが憲法第二一条によつて保障される言論・出版その他の一切の表現の自由とは、個々の新聞自体のそれが保障されることは勿論であるが、間接的にはこれによつて新聞その他のマス・メデイアを通じて国民が知識を獲得する自由、即ちいわゆる「国民の知る権利」も保障されているのである。原告の主張するような反論文掲載請求権がひとたび認められるとき、その対象は有料の広告のみでなく、報道・論評等一切の掲載記事に及ぶことになるが、これでは新聞の自由、なかんずくその編集の自由が後退萎縮し、国民の知る権利はかえつて侵害されることになるであろう。反論掲載を立法によつて認めること自体憲法上疑義のある所以である。

(二) 「人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権」について

原告は人格権を援用して人格権に基づく防害排除請求権を取り上げ、かかる物権的請求権の法源は結局のところ条理に求めるほかはないとして、本件反論文掲載請求権もその一例として構成することが可能であると主張している。

その立論は難解で真意を把握し難いが、元来妨害排除請求権は継続する侵害行為の差止を求めるものであつて、その行為が現に継続して行なわれていることがその前提であり、また請求内容も現になされている違法な侵害行為そのものの排除・停止に限られるのであつて、本件の如く一回限りの過去の掲載行為はその内容の如何に拘らず妨害排除請求権の対象になじまないものである。しかも反論文の掲載を求めることは元の行為の差止以上の内容を求めるものであるから、妨害排除の限界を超えるものとして到底許されない筈である。仮に人格権侵害を理由として侵害の差止請求権が肯定されるとしても、本件の場合直ちに反論文掲載請求権を認めるべき法理は見出せないと言うほかはない。

諸外国中には反論文掲載請求権を認めているものもあるが、それらはすべて特別の立法によつているのであり、判例法によつて右制度をうち樹てた例はない。かかる特別立法をすることで憲法違反の問題を生ぜしめないために、わざわざ憲法においてこの権利を承認する旨を規定している例すらあるのである。

要するに原告は本件について、「原告は被告に対して反論文掲載請求権を持たなければならない。」とのドグマを前提とした上で、これをいかに理由づけようかと百方腐心しているに過ぎないのである。

六、本件意見広告と名誉毀損の不成立

原告の主張第六項は総て争う。

(一) 政党としての原告の公共性

政党とは、国民の代表の場における政治的意思の形成に直接参与することを目的として努力し、国民代表の選挙に参与する国民の団体であり、政治的綱領を有し、綱領に掲げる政治上の主義・目的を国民の政治的意思形成に参与する方法によつて実現しようとする団体であり、代表者及び内部規律を有し、ある程度の継続性と固定性を有する団体であると定義することができるが、憲法が議会制民主主義を採用している結果、政党国家として政党の存在を予定していることは当然である。

わが憲法の下においては政党の設立は自由であり、従つて当然に多数の政党の併存を是認する多党主義が憲法上保障されているのである。そしてわが国の各政党はそれぞれ自己の掲げる綱領に基づいて、その政治上の主義・目的を国政において実現するために不断に国民に対し宣伝や勧誘をしてその支持者・同調者・党員を獲得してその組織を拡大し、かつ選挙における参与と活動とを通じて国会における議席を獲得し、これによつて自党の、又はその代表する国民の意見・政策を国民の政治的意思形成に反映させ、絶対多数を擁して国民代表として単独内閣を組織し、国政を担当することを終極の目的として相互に競争し、闘争を続けているのである。

従つて政党が直接国政に関わり、その政策及び活動が国民の生活・権利・自由等に多大の影響を有すること、即ち政党がその機能において高度の公共性を有していることは明白である。

(二) 政党における政策批判

政党は前記の通り、本来その性質上それぞれ対立抗争する関係にあるものであるが、これは政治上の主義・施策の争いであるから、その闘争主段は言論であり、これによつて相手方の主義・施策に対する批判・論評・抑制をなし、これを通じて国民の政治的意思の形成に働きかけるのであり、他方国民の側からすれば、政党間における活発な論争・批判によつていずれの政党が真に国民の意思を代表し、支持に値する政党であるかということを正しく判断することができるのである。

政党の本質が相互の競争にあり、しかも政党間の競争は論争即ち言論による闘争を手段として行なわれる結果、政党に対してその主義・綱領・政策・活動の誤謬・矛盾・欠陥等を暴露し、その批判・論評を試みるとき、その表現が自ら辛辣、痛烈となり、或は揶喩的となり、時に感情的となることは蓋し自然の勢いと言わなければならない。

要するに政党たる以上、他党の主義・政策に対して批判・論評をなすべき責務を負担するのであり、またこの相互の批判・論争が国民のいわゆる知る権利ないし自由な政治意思決定に奉仕する作用を有するのであるから、およそ政党たるものは相互に他党に対する批判に努めると共に、他党からの自党に対する批判を最大限に受忍しなければならないという責務も負担しているのである。

(三) 公共的関心事に対する批判・論評と名誉毀損との調整基準

本件意見広告による名誉毀損の成否の判断に当つては、被侵害利益としての名誉の主体が政党という極めて公共性の強いものであること、従つて一般的には大いに批判・論評されることを甘受すべき存在であること、侵害行為とされる本件の批判・論評自体が正に国民的意思決定に重大な関わりのあるものとして、公党からその対立公党に対してなされたものであり、言論の自由の行使として憲法上最大限の保障がなされなければならないことを考慮すべきである。かかる場合の名誉毀損の成否に関する調整基準に対する被告の意見は左の通りであるが、これらの基準に照して本件広告について名誉毀損が成立する余地は全くない。

1 刑法第二三〇条ノ二の「真実ノ証明」

右条項は人格権としての名誉の保護と憲法第二一条による言論・表現の自由の保障との調和を図つたものである。民法における不法行為たる名誉毀損についてもこの規定を類推適用し、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、専ら公益を図る目的に出た場合において、摘示された事実が真実であることが証明されたときには、右行為には違法性がないものとすべきであり、また右事実であることが証明されなくてもその行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意又は過失がなく、結局不法行為は成立しないものとすべきである。

本件意見広告は政党の綱領・政策という極めて公共性の高い事項に対する批判・論評を内容とするものであり、その中には事実の陳述が含まれているが、その名誉毀損の成否の判断については右の理論が適用され、これによる免責を受けることになる。

2 「公正な論評」の法理

「公正な論評」の法理とは英米法に由来し、批判・論評による名誉毀損と言論・表現の自由との調和を図るために形成・発展せしめられた理論であつて、公共的関心事に対する批判・論評の自由という観点から論評の公正を免責事由としたものである。即ち、公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事であるような事項については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正である限りは、如何にその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果被論評者の社会的に享受している評価が低下することとなつても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはないとする法理であつて、近時広く支持を得ているものである。

なお「公正な論評」の法理の適用される批判・論評自体は事実に基づく意見の陳述であつて、事実の摘示・公表を目的とするものではないが、批判・論評も事実を前提とし、又は事実に基づいて意見の開陳を行なうことを通常とするものであるし、事実の陳述とこれに基づく批判・論評との境界は微妙であつて必ずしも明確に区別し難い場合が多いこと及び公共的関心事について批判・論評の自由を積極的に保護すべきであることから、その事実について誤謬を含んでいてもこれを真実であると信ずるについて相当の理由がある場合には「公正な論評」の法理を適用しなければならないものである。

3 「現実的悪意」の法理

「現実的悪意」の法理とは米国の判例法に由来し、公務員に対する批判・論評について、同様にその名誉の保護と言論・出版の自由の調整を図つたものであるが、公務員に対する批判・論評は、それが現実的悪意即ちその内容が虚偽であることを知つているか又はそれが虚偽であるかどうかを全く無視する態度をもつてなされたということが立証されない限り、名誉毀損の責任を負わされることはないという法理である。この法理はその後、対象が公務員のみならず公的人物に、更に単なる私人であつても公共的関心事が問題とされている場合には総て、適用があるとされるに至つている。

4 右1ないし3に見た通り、従来の刑法第二三〇条ノ二の真実の証明の規定だけでは憲法第二一条による言論・表現の自由と名誉の保護との調整が十分に賄えないので、公共の利害に関する事項ないし公共的関心事に対する批判・論評について「公正な論評」の法理が登場し、更にかかる批判・論評の憲法上の意義を重視し、その最大限の保障をなすために「現実的悪意」の法理が出現するに至つたと考えることができる。本件意見広告のように民主政治にとつて最も重要な政党の綱領・政策の批判については「公正な論評」の法理はもとより、「現実的悪意」の法理も正に適用されるべきものである。たやすく名誉毀損の成立を認めて自由な言論・表現活動を阻害するような結果になることは絶対に許されない。

(四) 本件意見広告と名誉毀損の不成立

本件意見広告の掲載・頒布については、前述した「公正な論評」の法理や「現実的悪意」の法理に照し、被告が名誉毀損の責任を問われるいわれは全くないものである。

1 まず本件意見広告の内容は、前述の通り、政府綱領案に示されている政策のうち基本的な五項目について引用摘示した対照表の部分、右事実を基にして「多くの国民は不安の目で見ています。」との見出しの下に出稿者の意見を主として述べた部分、「前略日本共産党殿」「はつきりさせて下さい。」としている冒頭の見出しの部分及びイラストの部分であるが、これら四者のうちどの部分も事実の陳述ないし意見の開陳として、前述した法理に照して何ら名誉毀損を構成するものではない。

2 本件意見広告掲載の前後において、党綱領と政府綱領提案の関係については種々の政党・新聞・雑誌等から多くの疑問・批判が表明され、かつ広く流布されていたが、本件広告も正にこの種の疑問や批判を表明したものである。原告は右両者間の関係は既に十分に解明してきたものであると主張するが、これは本件広告で取り上げてきた問題に対する批判を封じようとするものである。いくら党員の間では了解がついていることであつてもそれはあくまでも内部事情であつて党大会の決定や経過を第三者が外から批判して悪いということはない。党内で決定したことがそのまま党外で通用する筈はないのである。自民党が党綱領と政府綱領提案との間に矛盾を感じたとすれば、それを公表、批判することは全く自由である。またほかならぬ原告自身も政府綱領提案発表当時、これに対する国民の討議・意見を歓迎する旨を表明していたのであるし、本来党の政策は他党からは勿論、新聞・雑誌・その他一般国民から当然に批判されるべき性質のものであることに鑑みると、本件広告が本来不法行為に該当するものでないことは極めて明らかであり、またこれによつて原告の政治的信頼が傷つけられたとか、政治的活動が妨害された等というべき筋合のものでないことも当然である。

3 本件広告における党綱領提案との対比は原文のままの引用摘示であつて、もとより虚偽の事実は含まれていない。引用に際して一部省略した部分もあるが、省略した部分は点線を用いてこれを明らかにしているだけでなく、その引用の全体からして原文の表現自体を読者に誤解させるようなものは全くない。本件意見広告はこのような対比を行なつた上で自民党が「矛盾している、と私たちは考えます」等の政治的批判意見を述べているものである。

広告掲載者としての被告としては、右意見が掲載方針に反するものでない以上、意見広告開放の方針に照してその掲載を拒否すべき筋合ではなかつたのであり、しかもその意見内容は、前述の通り「公正な論評」の法理や「現実的悪意」の法理に照して名誉毀損が成立する余地のないものだつたのである。

4 民主主義国家はおける政党は、主権者たる国民の付託を受けて存在している以上、政党相互間の綱領・政策に対する批判・論評はいささかの容赦もなく、自由になされるべきことは政党の責務上当然であり、各政党としても苛烈な論争を覚悟し、他党からの批判を甘受すべきである。これを通じて国民に各綱領、政策の批判・論評の是非を判断して自己の支持する政党を選択・決定せしめ、主権の行使に参画せしめるのでなくてはならない。

従つて政府や政党は、その綱領、政策及びそれを理論づける思想・情報等を国民に発表し、新聞はまたこれを国民に報道していわゆる「国民の知る権利」に奉仕するのであり、これこそ新聞がその自由を保障された憲法第二一条の精神に基づき、自らに課している本質的使命にほかならない。

本件意見広告は、自民党の原告に対する政治的批判・意見を表明したものであつて、国民の政治的意思決定に関わる公共的関心事として、また言論の自由の行使として憲法上最大限の保障がなされなければならないものである。

(五) 民法第七二三条と反論掲載請求権について

1 本件広告の掲載が不法行為を構成しないことは前述の通りであるが、更に原告の主張する反論文掲載請求権は民法第七二三条にいう適当な処分には該当しないものである。

わが民法は不法行為に基づく損害賠償の方法として金銭賠償を原則として採用しているのであつて、同法第七二三条はこれに対する唯一の例外であるから、徒らに広く解すべきものではない。更に従来わが国においてはその具体的な方法としては新聞・雑誌等を通じてなす謝罪広告又は取消広告に限定するのが定着した判例法となつているばかりでなく、その内容は申立の範囲内において裁判所が被害者の名誉を社会上回復するのに適当であると判断する内容が自由に確定されて宣告されるのである。

従つて原告の主張する反論文掲載請求権は定着した判例法を無視するものであるのみならず、裁判所がその判断によつて相当性や裁判内容を自由に判定することを許している民法第七二三条とも相容れないものである。

2 民法第七二三条にいう適当な処分とは、金銭の支払以外の方法であり、かつ被害者の侵害された名誉を回復するに適当な方法として裁判所によつて認定されることを要する。従つて単にそれは被害者を主観的に満足させれば足りるものではなく、社会的・客観的に見ても被害者の名誉毀損の回復に相当な方法と評価されるものでなければならない。

これを本件について見るに、別紙第二目録記載の本件反論文を通読しても、本件広告によつて自民党が反対政党の立場から表明した批判に対して原告が項目的に自己の意見を述べただけであり、一般読者はこれを見ても自民党の表明によつていかに原告の政党としての名誉が毀損されたのか、そしてそれに対して掲載される原告の反論文によつてその毀損された名誉が回復されたと判断できるかはそれ自体全く不明瞭と言わなければならない。これではいかに原告が主観的に右反論文によつて満足し得ても、これによつて社会的・客観的に原告の名誉毀損が回復されたとは到底認め得ないことになる。即ちかかる文章の掲載自体、民法第七二三条にいう適当な処分に該当しないと言うべきである。

3 民法の規定する不法行為による損害賠償制度は、権利又は利益の侵害による損害が発生した場合、この損害を法律上いかに調整すべきか、即ち何人をして、いかなる方法により、またいかなる範囲において補償させるかということを定めることを目的とするものであり、その本質は被害者の被つた損害の補償であつて、現実に生じた損害の填補以上に被害者に利得を与えることを目的とするものではない。もとより加害者に対して刑罰を科する制度でもないし、適当な損害額の補償をさせる以上に、賠償の名目の下に財産上の負担を強要する制度でもない。

ここで仮に本件において、原告主張のように本件広告によつて名誉毀損が成立するとした場合、原告は判例によつて最も代表的な名誉回復処分として認められている謝罪広告を請求できるのであり、通常の場合はその中で裁判所の認定した名誉毀損が明らかに表示され、加害者たる被告にはこれを理由に原告に謝罪すべき具体的文章の掲載が命じられるのであるが、その掲載のためにはせいぜい二〇ないし三〇行のスペースをもつて足り、しかも右謝罪広告によつて読者及び一般社会は原告の請求の正当性が裁判所によつて認められたことを一読して即座に了解し得るのである。

しかるに原告が本件において掲載を請求している反論文は、一般読者としては毀損された名誉の回復の有無を理解し難い長文の文章であり、一般読者にとつては判例によつて認められている通常の謝罪文の方がはるかに確実な印象を与えられるのである。仮に民法第七二三条にいう適当な処分に反論文掲載が含まれることがあるとしても、毀損された名誉の回復の手段としては、本件の場合の謝罪文の掲載が適当である筈であるし、また、原告の請求しているような長文の広告の掲載を強いるのは賠償義務者に対して必要以上の負担、損害を強いることになり、損害賠償制度においても妥当する公平の原則や正義の観念に正面から違背することとなろう。

第三  結論

原告の主張する反論文掲載請求権は新聞の自由と存立を破壊するものである。仮にこれが認められるなら、これは広告のみを対象とするものではないため、反論文に関する掲載場所・活字・スペース・掲載時期等について新聞編集者の自由は総て奪われ、新聞はその生命たる編集の自由を喪失することになる。また正確さと迅速さをモツトーとする新聞の編集・印刷の予定は反論文の優先的掲載によつて全く混乱状態に陥るであろう。これらの侵害は新聞の取材・報道・論評・編集等の有機的な関連を持つそれぞれの部門の自由に対する直接又は間接の侵害となり、担当者の熱意を鈍らせ、反論請求の恐れのある事実に関する報道・論評の回避(新聞の臆病な自己規制)、又は妥協的な報道・論評(新聞の萎縮)への道を開く結果となり、新聞記事の質的・量的な低下を来すことによつて、間接的には新聞に依存する読者の知る権利を損うという重大な結果を招来することになるのである。

更に現代において自由主義・民主主義・議会主義を採用する文化国家における新聞はいわゆるフリー・プレスであつて、その当然の要請として私企業形態を採つている。新聞がいかなる外部勢力からも影響を受けることなく、常に自主・独立であるためには、購読料と広告料の収入に依存せざるを得ない形態になることは、その使命遂行における自由・独立を守るための論理上必然的な方策であると言わなければならない。かく見ると、原告の請求は、無料広告掲載によつて自由独立のための新聞の経済的基盤に対して大きな打撃を加え、これによつて経済上も耐え難い損害を与ることになるであろう。

更に仮に原告の主張する反論文掲載請求権が立法上認められたとすると、この請求権を特定の集団に属する多数の構成員によつて行使させ、これによつて特定の新聞を収拾し難い混乱に陥れ、その企業を破壊に導くといつた事例も想定できないことではない。

本件は言論の自由の根幹にかかる問題である。被告が単に原告対被告間のことに留まらず、政党・新聞・司法等に波及する重大な問題を内蔵する事件であることを強調する所以である。

(証拠関係)〈略〉

理由

第一事実関係

一本件広告の掲載から本訴に至るまで

本件について原告の請求の当否を判断するにあたつては、本件広告掲載の前後から本訴提起に至る頃までの事実関係をまず概観しておくのが便宜であろう。

〈証拠〉並びに弁論の全趣旨を勘案すると、以下の通りの一連の事実を認めることができる。

1  戦後のわが国の新聞界においては意見広告は長く日の目を見なかつた。それは新聞が編集方針に把われて意見広告の掲載に消極的だつたためであるが、他方ではわが国の諸情勢が未だ意見広告を必要とする程には成熟していなかつたということも言えよう。ところが昭和四〇年、訴外「ベトナムに平和を!市民連合(いわゆる「ベ平連」)」がニユーヨーク・タイムズ紙上にベトナム反戦の意見広告を掲載したことが刺激となつてわが国でも新聞の意見広告に対する開放・解禁が問題になり始めた。そして昭和四三年、訴外日本経済新聞社が初めて「意見広告」という表現を用いて「社是に抵触しない限り」意見広告を掲載することを明らかにし、翌昭和四四年にはほぼ同様な条件の下に主要な新聞社がこれに同調したため、意見広告による政治的ないし社会的主張が次第になされるようになつた。

被告も従前はその編集方針に反する主張や宗教的主張を論じた広告は掲載しないことにしていたが、昭和四五年一〇月、わが国で初めて宗教広告に紙面を開放し、次いで昭和四八年九月、意見広告掲載基準及び同運用規則を制定し、わが国で初めて意見広告に対しても全面的に紙面を開放するに至つた。即ち編集の姿勢・立場とは関係なく、すべての個人・団体のどのような主張・意見についてもこれが責任ある発言である限り、社内の意見広告掲載基準委員会で検討した後に、通常の広告料金より割安で広告欄を提供するとしたのである。

2  同年(昭和四八年)一一月一五日、訴外日本新聞労働組合連合の機関紙である「新聞労連」紙が、自民党の広報委員会が同年一一月から翌昭和四九年六月末に予定されていた参議院議員選挙までの間七、八回にわたつて、自民党の意見広告を朝日・毎日・読売等の七紙に掲載する計画を進めていること、その第一回の内容は原告の政府綱領提案の批判であつて、これは全七段の大型広告であること及び自民党はそのために既に二〇億円以上の資金を準備してその企画を具体化させつつあることを報じた。

原告は右報道を重視し、同月二七日、前記「新聞労連」紙の報じた七新聞社(朝日・毎日・読売・日経・サンケイ・東京・東京タイムズ)に対し、「社会の公器としての新聞の責任と良識にたつて、新聞広告倫理綱領、広告掲載基準等を厳守する立場から、自民党の意見広告にたいし厳正な措置をとるよう」にと文書及び口頭で申し入れた。原告はこの時点では具体的な広告内容についてはまだこれを掴んでおらず、また出稿者である自民党に対しては何らの申入もしなかつた。

ここに「厳正な措置」というのは要するに、その内容に拘らず原告の政府綱領提案批判の広告掲載を見合せて貰いたいという趣旨と解される。

これに対して被告は、かかる申入の有無に拘らず、被告の意見広告掲載基準及び同運用規則に照して処理する旨を原告に対して回答した。

なおサンケイ新聞広告倫理綱領は、

(1) サンケイ新聞の広告は常に公正にして真実をつたえるものでなければならない。

(2) サンケイ新聞の広告は品位を重んじ、責任の負えるものでなければならない。

(3) サンケイ新聞の広告は社会道義、良風美俗を害したり、また関係諸法規に反するものであつてはならない。

(4) サンケイ新聞の広告は虚偽、誇大な表現により、読者に不利益を与えるものであつてはならない。

(5) サンケイ新聞の広告は他の名誉を傷つけ、不快な印象を与えるものであつてはならない。

(6) サンケイ新聞の広告は報道の自由をおかすものであつてはならない。

となつており、更に被告の意見広告掲載運用規則(一部)は、

1 意見広告は、次の要領に抵触するものは掲載しない。

イ 広告主の名称、責任者名、住所、目的など実体があいまいであり、その意見に対し、署名者が責任を持ち得ないと判断されるもの。

ロ 内容が事実に反するもの。

ハ 関係諸法規に抵触するもの(例 名誉毀損、侮辱、信用毀損、業務妨害など)。

ニ 破壊、暴力を肯定したり、あるいは人心を惑わすおそれのあるもの。

ホ 詐欺、わいせつ、俗悪、人種的・宗教的な憎しみなどの内容、表現を用いたもの。

ヘ その他、本社が掲載不適当と認めるもの。

となつている。

3  自民党は同年一一月二〇日頃、広告代理店である訴外博報堂を通じて本件広告の掲載申込を前記七社中の六社(朝日・毎日・読売・サンケイ・日経・東京)に対してなした。但しこの時の原案はその後掲載された本件広告と全く同一ではなく、いくつかの点で相違していた。

主な相違点は以下の通りである。

(一) 政府綱領提案と党綱領の対照表中、「憲法」なる項目があつて、政府綱領提案からは「尊重し、擁護する」と、党綱領からは「新しい憲法が制定される歴史的時期がくる……」とそれぞれ引用されている。

(二) 本文中本件広告では「多くの国民は不安の目で見ています」となつている部分が「国民は疑惑と不安の目で見ています」となつている。

(三) 同じく本件広告では本文中「他の政党や、新聞の社説のなかに、疑問と不安を表明しているところもあります。」となつている部分が、「他の政党も、また各新聞の社説も、みんな疑惑と不安を表明しています。」となつている。

(四) 同じく本件広告では本文中の「連合政府案は、プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないか?」の部分の次に「もしそうなら、あなた方をギマン者、羊の皮をかぶつたオオカミと断ぜざるを得ません。」との文言が加えられている。

(五) 本件広告中末尾に「自由社会を守る自由民主党」となつている部分が「国民にかわつて自由民主党」となつている。

被告及び日本経済新聞社(以下「日経」と略称する。)は両社の意向を受けて右原案が出稿者により本件広告の通りに修正されるのを待つた上で同年一二月二日、これを一斉にその朝刊に掲載した。

従つて被告は、前記サンケイ新聞広告倫理綱領及び意見広告掲載運用規則に照して、修正前の原案は意見広告として掲載するのに何らかの差し障りがあるが、修正後の本件広告は、公正にして真実を伝えるものであり、品位を重んじているものであり、また他の名誉を傷つけたり、不快な印象を与えるものではないと判断したことになる。

4  他方、朝日・毎日・読売・東京の四紙は結局本件広告の掲載を拒否したのであるが、右各紙の担当者はその理由をそれぞれ「読者はまだ政党広告になじんでいないため、朝日の内容と混同される恐れがある。また本件広告の内容は特定の政党を批難するものである」(朝日)、「一、イラストの意味が不明である。二、党綱領等が一部引用で誤解を招く恐れがある。三、広告文中の「社説で表明」という部分の正確性に疑問がある。四、本件広告が誹謗、中傷ではないと断定できない。」(毎日)、「本件広告は意見広告ではない。」(読売)、「若干穏当を欠く表現であり、新聞のスペースが他を攻撃したり、また泥仕合の場になることは困る。」(東京)と表明した。

5  本件広告掲載の翌日である同年一二月三日、被告は広告局の次長級を含む三人の社員を原告方に派遣し、被告の意見広告開放の方針を説明させた上、本件広告を示して原告に反論広告の掲載を慫慂したが、原告はこれを拒否した。なお被告がこのように広告掲載の勧誘をなすのは全く異例のことである。

6  原告は被告及び日経が本件広告掲載を断行したことに驚き、その対策として、一方では本件広告が原告の主張を歪めたものであつて国民の間に原告に対する誤解と偏見とを与えるものであるからどうしても本件広告に対して反論せざるを得なくなつたとし、他方では一般新聞である被告がかかる一方的な中傷・攻撃広告を掲載したことに対して掲載者としての責任を追求しなければならず、そのためには原告の反論をサンケイ紙に掲載させる必要があるという結論に達したので、以後この方針で被告(及び日経)と交渉することになつた。

7  同年一二月五日、原告は代議士である林百郎及び津川武一を代理人として被告方に派遣して、本件広告は原告が既に解明してきた事項を一方的に攻撃した不当なものであり、それが社会の公器たるべき新聞の紙面を用いてなされたことは一般新聞の紙面を金権勢力の私物化するものであると抗議した上、本件広告という新聞倫理綱領に反する中傷文書を掲載した以上、今後原告がこれに対して必要な反論を(意見広告という形でなく)一般的に発表した場合には社会の公器たるべき被告としてはこれを全面的に報道することは当然であると主張した。これに対して被告側では広告局長の中谷昭世と編集局次長の藤村邦苗が応対し、原告が記者会見等で反論を発表するなら、被告は編集方針に基づいて記事として報道してもよいと答えた。

8  同年一二月一一日、原告は被告方に前記の林百郎、書記局員の津金佑近、広報部長の宮本太郎の三人を派遣して二回目の交渉をさせた。被告側で応対したのは前記の藤村邦苗である。この席上原告側は、本件広告は事実を歪めて原告を一方的に中傷したものであり、原告に対して回答を求めている挑戦広告であつて、原告がこれに反論しなければサンケイ紙の読者に本件広告の内容が真実であるとの誤解を与えることになるから、原告は本件広告に対して反論せざるを得なくなつたもので、本件広告を掲載した被告は原告の反論を掲載して原告が被つた損害を償うべきであると主張した。これに対して被告側は、本件広告が原告を誹謗中傷したものとは思わず、原告側の主張とは見解が異なる、原告が記者会見等で本件広告に対する反論を発表するのならこれを被告の編集方針に従つて記事にするが、その内容について原告と相談するつもりは毛頭ないと答えた。更に原告側は、新聞倫理綱領・新聞広告倫理綱領・サンケイ新聞広告倫理綱領等を示して本件広告はこれらに違反したものではないかと被告を詰つたが、被告側は、それは見解の相違である、またこれらの諸綱領は被告の責任において解釈運用するものであると答えた。

9  同年一二月一五日、原告は被告方に前記の津金佑近、林百郎及び宮本太郎の三名を派遣して被告と三回目の交渉をさせた。被告側で応対したのは前記の藤村邦苗及び広告局次長の佐藤敏道であるが、この原被告双方の顔ぶれは同年一二月二七日の交渉決裂に至るまで変わらなかつた。

原告側はこの日、掲載を求める反論文の原稿を持参してその掲載を求めた。これは「自民党の大型広告に反論する」と題した約六〇〇〇字の文章で「すべて解明ずみの議論」「反共宣伝を糾弾する」の二部から構成されていた。ところで原告側では、これを意見広告として掲載させるのか、それともそのまま記事の形で報道させるのかという点について、この段階では決まつた結論を持つていなかつた。

他方被告はこの日、原告に対して被告としての対応を文書で次の通り回答した。その内容は、広告の内容に関する一切の責任は出稿者に帰すべきものであり、被告に迷惑をかけないことになつているとした上、本件広告が原告に対して回答を求めているものかどうか原告側で自民党の正式返答を直接取り付けることを求めたものであつて、もし本件広告が原告に対して回答を求めているものである旨の一礼を原告が自民党から取つて被告に提示するならば、被告は無償で原告に紙面を提供し、その費用は自民党から回収するというものであつた。

原告はこれに対して、被告が掲載した本件広告について、誹謗中傷を受けた当の被害者である原告が加害者である自民党の真意を尋ねに行くなどということは考えられず、また原告の反論を自民党の承認の有無にかからせた上、同党の許容範囲内で原告の反論を掲載させようとするものであつて原告の公党としての立場を無視し、かつ広告掲載者としての被告の責任を回避するものであつて不当であると主張した。

これに対して被告側は、本件広告が違法なものでない以上被告が掲載者としての責任を問われる筋合ではなく、その内容に関しては全部出稿者が責任を負うべきもので、問題は自民党と原告との間で決せられるべきであるとの主張を維持した。

10  同年一二月二二日、原被告間で四回目の交渉が行なわれた。前回提示の被告案は原告が拒絶し、原告の要求する反論文の無料掲載は被告が拒否して進展がなかつたので、この日被告は第二の案として、原告が反論を通常の意見広告としてサンケイ紙に出稿すれば、料金については弾力的に考慮するという提案をなした。これに対して原告は、原告の金銭的負担において反論意見広告を出稿するということは、自民党の本件広告による一方的な他党批判を追認することに帰し、結局金の力に基づく広告による中傷・誹謗に道を開くことになつて金権勢力による大がかりな「公器」濫用行為や一般新聞の公共性破壊を招来するばかりでなく、被告のかかる提案は、社会の「公器」たるべき一般新聞が巨額な広告料を取つて他を侵害する不正行為を働きながら、その被害者から反論掲載に名を藉りて更に巨額な広告料を取るという「悪徳商法」を行なおうとするに等しいと主張して、この第二案も拒絶した。なおここにいう広告料金の「弾力的」な考慮ということについてはその意味が必ずしも明らかではなく、文脈上は広告料金の値引のことかと思われるが、証人宮本太郎は、佐藤次長から「弾力的」とは例えば広告面で資金カンパを訴えることであるとの説明を受けた旨供述している。もしそうだとすれば何故これが料金の「弾力的」な取扱になるのか右説明の真意が理解できないところである。しかしながら原告側では前記の主張に基づいて、一部でも原告で費用を負担するつもりはないという態度であつたため、それ以上深く右提案に立ち入ることはなかつた。

11  同年一二月二五日、第五回目の交渉が行なわれたが、双方とも従前の主張に固執したため、内容的には何ら進展が見られなかつた。(なおこの席上原告側は、日経とも併行して反論掲載の交渉を進めているが、同社ではその席上に役員を出席させている旨指摘して、被告側も本交渉の席に役員を出すように求めたが、被告側の代表である藤村、佐藤の両名は、自分達は責任を持つて交渉に臨んでいるのであるし、内容については一々幹部と相談しているのでその必要はないと答えた。)

12  同年一二月二七日、第六回目の交渉が行なわれた。この席上原告側は掲載を求める反論文について前々回の原稿を修正した原稿を示した。これが別紙第二目録の反論文である。原告側はこれについて、本件は原被告間のみの問題ではなく、日本の新聞のあり方、言論の自由に関わる問題であるとした上、右反論文は被告の立場を考慮し、他党批判等は含まぬ最少限度の防衛的範囲にとどめたものであると主張した。

他方被告は、先に被告が提示した両案のいずれかに依るのであれば原告の反論文を掲載するが、無料掲載には応じられないという従前の主張を維持したので、結局交渉はそれ以上進展しないままデツドロツクに陥り、決裂するに至つた。

13  そこで原告は右席上被告に対し、原告は自衛上サンケイ紙とその直系系列紙誌の個別取材を拒否するということ、従前の交渉経過を天下に公表してことの黒白を明らかにするということ及びその結果被告が国民の批判を浴びてもそれは挙げて被告の責任であるということの三点を通告した。これに対して被告は、右の第二点(交渉経過の公表)は結構であり、その結果は原告の指摘の有無にかかわらず当然被告が負うべきものであるが、右第一点の取材拒否は言論・表現の自由の圧迫であり、常に報道の自由・表現の自由を主張してきた原告の姿勢に反すると主張してその撤回を求めたが、原告は応じなかつた。

14  その後原告は、本件広告によつてその名誉を毀損されたとして、右不法行為に対する損害回復の手段として本件反論文掲載の仮処分決定を求めて当庁にその申請をなした(昭和四九年(ヨ)第七六七号事件)が、当庁は本件広告による名誉毀損の成立を否定して右申請を斥けたので、本案として本訴の提起に及んだものである。なお原告は被告と同様に本件広告を掲載した日経に対しても被告との交渉と併行して反論文の掲載を求めて交渉を行なつていたが、同社もこれには最後まで応じなかつた。それにも拘らず原告は同社に対しては本件反論文の掲載を求める民事訴訟を起こしてはいないのであるが、原告はその理由を、現段階においては日経に対しては訴を提起してまで反論文の掲載を求める必要はないと判断したためであると主張している。これは同年一二月一五日に同社が原告に対して、「政党相互間の批判広告の掲載は時期尚早であると判断し、今後掲載を見合せる」旨の回答をなしたことと無関係ではないであろう。

15  なおこれまで被告は、サンケイ紙が掲載した広告について読者からクレームのあつた場合、事後に当該広告の掲載者として読者に対して何らかの責任を取つたことはなく、被告のサンケイ紙上の新聞広告への関与は事前の調査及び判断に尽きている。

さてこうして見ると、原被告間の六回に及ぶ交渉は紛争解決の上で何らの成果ももたらさなかつたことが明白である。被告は当初から、本件広告は違法なものではないから掲載者である被告としては本件広告について責任を負わないとの前提の下に、報道記事と広告とを厳密に区別して、原告の反論を記事として報道する場合には被告の編集方針に則つて行なうとし、広告の場合には無料掲載には応じられないとしていたのであつて、その立場は一貫して明確であつたと言えよう。一方原告については、交渉当初の段階においては原告側において掲載を求めたものが意見広告であるのかそうではないのか明らかでないところがある。しかしながら原告にとつては原告の反論がそのまま無償で掲載されるか否かということが主要な関心事であつたのであるから、これが形式上意見「広告」であるのか否かということは原告にとつてさして意味のないことであつたとも考えられよう。而して本件広告につき、これが原告の名誉を毀損した違法な広告であり、かつその被害の回復には原告の求める反論文の全面掲載しかあり得ないのであつて、それ以外の方法は受け入れられないとする原告と、反論広告の無料掲載には絶対に応じられないとする被告との間では、交渉がまとまらないのは当然である。ところで被告の反論文の無料掲載には応じられないという態度は最初から一貫していたのであるから、原告の主張するように、前記原被告間の折衝において、被告が第六回目の席上に至つて原告の反論文の無料掲載を「最終的に拒否した」というわけのものではないであろう。要するに被告は最初から拒否し続けたのである。

他方被告が、本件広告によつて原告に反論の必要性が生じたことを事実上認めていたかどうかは多少問題であろうが、前記のように被告が本件広告の掲載直後に原告方に広告局の社員を派遣して異例にも反論広告の掲載を慫慂させたところからすると、被告が本件広告の如く原告を名指しにした広告を掲載しながら原告からこれに対する(有料)反論広告掲載の申入があつた場合にこれを拒否することはまず考えられないから、右の趣旨は単なる被告の意見広告開放の方針の説明などではなく、要するに「本件広告が出たので、共産党さんも反論しなければならないでしよう。」という趣きのものであつたと見られる。従つてこの点から判断すると、被告も事実上の問題としては、原告として本件広告に反論の必要性を感じていることを認めていたものとしてよいであろう。

二本件広告の内容

1  以上の事実関係を前提とした上で、次に本件広告の内容を概観してみることにしよう。

本件広告は一見して明らかな通り(別紙第一目録参照)、見出しの部分、いわゆるイラストの部分、本文の部分及び広告主名の部分と四分することができるが、その内容は要するに、「自由社会を守を自由民主党」が原告の党綱領と政府綱領提案の間には矛盾があると難じたものと見ることができよう。いわゆる「意見広告」を過不足なく包含する定義の発見は困難であるが、少なくとも本件広告が意見広告に該当するものであることは明らかである。但し本件広告が自民党が政党として激しく対立している原告を名指しにした点において甚だ特殊なものであるということは留意しておくべきであろう。もつともこのように攻撃的・挑戦的な広告でも、その攻撃によつて自己が浮上するという効果を生じ得るので、その意味においても本件広告が意見広告であることは言うまでもない。また本件広告は広告主が原告の党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があるという主張をしているのであるから、いわゆる「論評」に該当するものであることも当然である。

2  原告は、本件広告は原告の主張を歪め、原告の重要な基本文書である党綱領と政府綱領提案との間にありもしない矛盾があるというアピールをしていると主張するので、この点から検討してみよう。

本件広告中に引用されている部分が党綱領及び政府綱領提案の原文自体に手を加えたものでないことは当事者間に争いがないので、まず右引用部分から見てみるに、「国会」・「安保」の諸点については、引用部分相互間に格別の矛盾があるとは感じられない。即ち、まず「国会」の点については、党綱領から抽出した「反動支配の機関から人民に奉仕する機関にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。」とある部分は、これだけではいささか意味不明瞭でその内容を判じ難いため「総選挙による国民の審判にもとづく政権交代制がまもられる。」(政府綱領提案)との文言との矛盾を云々するには十分でないし、「安保」の項目に関しては、「国会の承認をえて、アメリカ政府にたいし……終了させる意思を通告する。」(政府綱領提案)とある部分と「いつさいの売国的条約・協定の破棄……のためにたたかう。)(党綱領)とある部分と、それぞれの文言を比較するに、いずれも、要するに原告の「安保」に対する否定的態度を示しているのであるから、表現上の程度の問題をとらえてその間に矛盾があるとまでいうことは行き過ぎであろう。

他方「自衛隊」「国有化」及び「天皇」の三項目については、引用された文言からは政府綱領提案及び党綱領の相互間に相違点があることを読み取ることができる。

そこで党綱領と政府綱領提案の本文を改めて読み比べてみよう〈証拠略〉。

まず、「自衛隊」については、政府綱領提案はその「第一部第三章安全保障と自衛隊政策」において、「当面の措置」としては「自衛隊の縮減と基地の縮少をおこなう」が「統一戦線として一致した場合」には「違憲の自衛隊をすべて解散させる」旨を明記している。後者は党綱領と一致するものである。従つて、本件広告が、政府綱領提案の項目下に右の前者のみを掲げて、後者を無視し、そのため一見原告が政府綱領提案においては自衛隊の存続を認めるものであるかのような、従つてまた党綱領と矛盾するかのような印象を読む者に与えることになつているのは、抽出引用の仕方がフエアでないというべきである。

次に、「国有化」の点につき、本件広告に抽出された部分の前後を見ると、右部分は政府綱領提案では、その「第二部大企業中心の経済政策をやめ、国民のいのちとくらしをまもり、日本経済のつりあいのとれた発展をすすめる 第三章日本経済のつりあいのとれた発展をはかる 四総合エネルギー公社の設立」と題する所にあつて、「(高度成長政策の破綻はエネルギー問題に著しく表われていること及びエネルギー産業は最大の公害産業となつていることから) 民主連合政府は、重要産業の国有化については慎重な態度をとるが、緊急のエネルギー問題を自主的、民主的立場から解決するためには、電力、石炭、石油、原子力、ガスなどエネルギー産業の主要な大企業の国有化が必要であり、これらのエネルギー産業を民主的に管理される総合エネルギー公社に編成する。」となつており、また党綱領では「(党は)国有企業、国有・公有林野の管理の民主化のためにたたかう。独占資本にたいする人民的統制をつうじて、独占資本の金融機関と重要産業の独占企業の国有化とその民主的管理を提起してたたかう。」となつている。こうして原文を比べてみると、「国有化」の点についての本件広告の抽出は、双方でそれぞれ用いられている「重要産業」の語の範囲が明確でないせいもあるが、要約の仕方としてはやはりフエアではなく、主要な産業の国有化を指向する原告の基本的姿勢は同一であると見られるから、本件広告における抽出部分は言葉尻を捕えているものと言つても差し支えないであろう。

最後に、「天皇」の項目について見ると、本件広告に抽出された部分は、政府綱領提案では、その「第三部憲法改悪に反対し、民主主義の確立と、教育、文化の民主的発展をはかる 第一章民主主義の擁護と拡大 一憲法改悪反対、憲法の平和的、民主的条項の完全実施」と題するところにあり、「民主連合政府は、憲法改悪のいつさいのくわだてに反対し、憲法の平和的、民主的条項を完全に実施することはもちろん、憲法第九十九条にもとづき、現行憲法を尊重し、擁護する。天皇についても、従来、自民党政府がつづけてきた各種の逸脱をただし、天皇の国政関与を禁止した憲法第四条、国事行為の範囲を規定した第七条を厳格にまもる。」となつており、また党綱領では「労働者、農民を中心とする人民の民主連合執権の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。」となつている。両者を比較するに、天皇制に消極的な原告の基本的姿勢は共通であり、また本件広告中政府綱領提案からの抽出部分は多少原文とは異なる文脈で用いられているとは言え、天皇制の存続自体に関する原告の主張は政府綱領提案と党綱領とでは明らかに異なるのであり、その限り本件広告における両者の要約は正鵠を得ているとしなくてはなるまい。

更に、右のような各項目個別点検の立場を離れて、上下両欄にそれぞれ対照配置された政府綱領提案及び党綱領からの要約部分を通読するだけでも、下欄の文言は「革命」とか「人民共和国」とかの語を含んで、上欄の穏健に比し何となく肌触りに相違があることは否み得ず、これは全体としての政府綱領提案及び党綱領の原文に遡つて読み比べるとき一層その観がある。だからこそ成立にいずれも争いのない乙第三五号証ないし同第四五号証に見られるように、党綱領と政府綱領提案の関係を問題とする種々の諸論評がなされてきたのであろう。もつともこの中には全く取るに足りないものもあり、明らかに偏頗なものもある。論評者が対立する双方の一方に近い立場にある場合にはその内容が非難・攻撃に傾きがちなものであるが、少なくともわが国の民意を広く反映すると見られている朝日・毎日の両新聞が同様の疑問を呈していることには注目してよいであろう。原告に対し党綱領と政府綱領提案との関係を質していたのは、対立当事者である自民党だけではないのである。

3  しかし考えてみると、原告の主張によれば、党綱領は当面の行動綱領を含むが、将来の独立・民主の日本、終局的には共産主義社会までを展望した文書であり、他方政府綱領提案は現段階において革新勢力がさしあたつて一致できる目標の範囲内で国民生活防衛と民主的改革を遂行する連合政府の共同綱領についての原告の提案であるというのであつて、双方性格を異にするものである。してみればその間おのずから相違点が生じるのも当然ではなかろうか。「民主連合政府の共同綱領をつくるためのいわば討議のたたき台としてだしたわが党の「提案」に、党綱領のすべてがもりこまれていないのは当然」(本件反論文)であり、「そもそも政党が、当面の段階の革新連合政府の政策内容としてかかげるものと、もつと将来の段階についての政治的展望とに、ちがいがあることはあたり前」(同)と原告の自認している通りであろう。

もつとも「矛盾」という言葉には、本来一致すべきものが相反しているという意味での消極的価値判断が含まれていることは否定できない。原告が本件広告を誹謗中傷であると主張するのもかかる認識を前提とするものであろう。(出稿者がこの「矛盾」という言葉を用いたことの効果については後述する。)

4  次にその余の本件広告全体の効果について考えてみよう。

原告は、本件広告は政府綱領提案は党綱領を事実上ごまかしたものであるとし、原告にこの点の回答を求めて迫り、もし回答しないなら、政府綱領提案はプロレタリア独裁へ移行するための単なる踏み台、革命への足掛りに過ぎないというアピールを行なうものであると主張する。確かに本件広告は、その見出しの部分における「前略 共産党殿」という書簡文用語と末尾の広告主名の表示と(しかも、後に判示する通り、この両部分は活字の大きさで広告スペース中でも目立たせられている。)によつて、一見原告への呼び掛けないし論争の挑戦といつた体裁を取つているのではあるが、これはいわゆる広告の訴求効果を狙うテクニツクの問題に属し、要するにそれが「広告」であることから明らかな通り、本来の訴求対象はあくまで読者である国民であつて原告ではなく、直接原告に呼び掛けてその回答を求めているものとは言えない。これにより「回答しなければ政府綱領提案は革命への足掛りに過ぎないとのアピールを行なうもの」ではなく、原告の回答の有無に拘らず、政争上の対立当事者として、政府綱領提案は革命への足掛りに過ぎないとのアピールをしているのである。殊に前示(第一、一3)した本件広告の原案ではこの点が一層明確となる。即ち右原案は本件広告より更に断定的、挑戦的なものであつたが、その狙いは右原案も本件広告も共通であつて、要するに原告を「ギマン者、羊の皮をかぶつたオオカミと断」ずるにあることはたやすく読み取れるのである。原告はまた更に本件広告冒頭の「はつきりさせて下さい。」という見出しは政府綱領提案に対する中傷であると主張するが、原告はかかる重大な政策を発表する以上、その内容・目的については国民の前で十分説明し、明らかにせねばならない筈のものである。従つてかかる表現が直ちに中傷であるとは言えない。

しかしながら本件広告は全体としてこれを見た場合、中傷的言辞を用いて、原告を攻撃したものと言つて差し支えない。本件広告は冒頭に大きく「前略 日本共産党殿」と対立当事者である原告を名指して特定した点からして意見広告としては異例であるが、「はつきりさせてください」という表現は原告には不明確な点があるということを前提にしたものであるから政党である原告が国民に対して何かを隠していて不明朗であるという印象を与えかねないものであり、「(政府綱領提案は)プロレタリア独裁……へ移行するためのたんなる踏み台……に過ぎないのではないか?」「多くの国民は不安の目で見ています」という表現と併せれば、要するに政府綱領提案は党綱領と矛盾し、これを偽るものであるとして、政府綱領提案の目的に嘘があると主張しているものと言えよう。更に党綱領及び政府綱領提案の内容をそれぞれ要約して表にした部分は、前記の通り、一部を除いて必ずしもそれらの内容を当該箇所の文脈に即して正確に要約・摘示したものとは言えないし、本件広告中の歪んだ福笑いを象つたイラストに至つては、被告の主張するような単なるアイキヤツチヤーたる(アイキヤツチヤーとしての効果は勿論あるが)にとどまらず、本件広告内の文章の部分と結びついて、原告ないしその主張に対して「バラバラ、支離滅裂、矛盾」という印象を喚起する効果を狙つたものであることは一目瞭然と言つてよい。

そこで次に、かかる本件広告のもたらす法律上の効果について検討しなければならない。そしてそれは原告が本訴で請求する反論文掲載の可否の判断につながることである。

第二言論の自由に基づく反論文掲載請求権について

原告はまず本件請求を理由あらしめる根拠として言論の自由(憲法第二一条)を掲げるので、この点から考えてみよう。

一〔言論の自由と反論の自由〕  憲法第二一条による言論の自由の保障は、ある言論の対象となる相手方の言論の自由をも当然に保障しており、むしろ言論の自由は概念上反論の自由をも含んでいるとも言えよう。そして、この反論の自由が攻撃の方法、内容等の特殊性に応じて十分に効果的な反論を行なう権利をその内容として有していることは原告の主張する通りであろう。即ち原告は、公共の福祉に反しない限り、いかなる言論、反論をなすことも妨げられない。しかしながら、このようにして原告の有している反論の権利の確認から本件で訴求している被告に対する特定の反論文掲載請求権が認められるまでには更に多くの問題が検討されるべきである。

二〔原告の主張する要件事実〕  原告は、本件広告が、①二〇〇万人の固定読者を有する一般新聞の広告という手段によつていること、②原告を名指しにしていること、③原告の重要な基本的政策について、殊更に歪曲した表現を用いて攻撃していること、④原告に対して社会通念上、同一紙上での回答を求めるものとみなされる体裁をとつていること、⑤もし原告がこの攻撃に反論しないならば、その攻撃にかかる内容が真実であるという印象を与えるという構成をとつていること、⑥それらによつて、原告に対する政治的信頼を傷つけ、原告の政治活動を妨害したこと、及び被告が、⑦原告が反論することを余儀なくされる地位に立つことを知りながら、敢て前記諸特徴を持つ本件広告を掲載頒布したこと、⑧被告は新聞事業を営むもので、自ら原告の要求している本件反論文をサンケイ紙上に掲載することによつて、原告の被つた政治的信頼の毀損及び政治活動の妨害を回復・排除することのできる地位にあること、という八要件を列挙し、この具体的事実が存する本件の場合は原告は憲法第二一条に基づいて、直接被告に対して本件反論文の掲載を請求し得るのであると主張している。

三〔右要件事実の内容について〕

しかし右八要件については次のような疑問点がある。

まず①につき、「固定読者」の概念が明らかでなく、またサンケイ紙の読者中どの位が「固定」しているのかということを見究める証拠が存しない。わが国の新聞業界が読者の拡大を目指して激しい競争を続けていることは公知の事実であるから、サンケイ紙しか読まぬことにしている読者も勿論いくらもいるであろうが、他方少なからぬ読者が浮動状態であるとも考えられるから、「固定読者」を前提に反論の効果を計るのは問題の余地を残すであろう。

次に③につき、党綱領及び政府綱領提案が原告の重要な基本的政策であること及び本件広告がこれらを攻撃したものであることは当然として、本件広告中右の双方から引用摘示した部分に虚偽の含まれていないこと及び党綱領及び政府綱領提案との関係について疑問を呈出したのが本件広告の出稿者である自民党だけではなかつたことは前示(第一、二2)の通りであるから、本件広告が原告の政策を「殊更に歪曲」したものであるというのは妥当でない。

次に④につき、本件広告の実質は原告の回答の有無に拘らず政府綱領提案を攻撃するものであることは前述した通りであるが、仮に体裁上は本件広告が原告に対して政府綱領提案について何らかの釈明を求めるものであることを認めるとしても、同一紙上において回答をなすこと当然に要求しているものとみることはできない。本件広告はその冒頭において「前略 日本共産党殿」とした後、「はつきりさせてください」と言つているだけのものであるから、仮に求めているものがあつたとしてもそれは政府綱領提案の目的を明らかにする原告の政治活動一般であつて、本件広告を公開質問状と解することはできないのである。

⑤についても同様であつて、本件広告は原告の対立当事者である自民党が、原告の回答・釈明・反論の有無を問題とせずに、原告の政策を攻撃し、その攻撃内容を真実であるという印象を与えようと計算してなしたものであり、原告が反論したからといつて本件広告の印象が変わるというものではないのである(これは本件広告によつて事実上も原告に反論の必要性が生じなかつたという趣旨ではない)。

また⑥については、政党に対する批判という点から考えて見なければならない。およそ民主主義社会における政党は、言論・表現の自由に基づく論争を主要な武器とし、国民の間における支持を競い合つて政権を目指すものである。従つて、その結果として政党間の論戦がおのずから苛烈・辛辣なものとなるのは避けられないのであつて、およそ言論によつて自己に対する支持を訴えるものは他面自己に対する厳しい批判・攻撃を甘受しなければならないと言うべきである。

他面、政党がこのような状況下にあるということは国民の間では公知の事実であつて、国民はこれを前提として政党間の論争を見ているものであるということもまた否定できない。即ち対立政党間の論争・攻撃は国民の間にそのまま受け取られるものではなく、対立当事者間ということだけでもその効果が当然減殺される性格のものである。

右の二つの観点から⑥の要件を吟味すると、訴外自民党が本件広告で原告を攻撃したからといつて、直ちに原告の政治活動を妨害したとするのは相当でないし、また本件広告によつて原告に対する国民の政治的信頼が傷つけられたかどうか甚だ疑わしい。

四〔右要件事実に対する判断〕  ところで本件における最大の争点は言うまでもなく原告の被告に対する民事上の反論文掲載請求権である。ここで原告は、前記①ないし⑧の要件が満たされている本件の場合には原告は被告に対して憲法第二一条に基づいて直接本件反論文の掲載を請求し得ると主張するのであるが、右八要件に前述の通りの問題点が存していることを一旦捨象するとしても、何故このような要件の下では原告に民事上の反論文掲載請求権が生じるのか当裁判所として俄かに理解できないところである。原告が言論の自由に基づいて、サンケイ新聞を用いた訴外自民党の攻撃に対して同紙上の反論「広告」を含むあらゆる手段で反論する権利を有していることは言うまでもない。憲法二一条の保障する言論・表現の自由の重大性は原告の主張する通りである。

しかしながら、他の者に責任・負担を負わせるような反論の手段を保障するためには当然そのための根拠がなければならない。原告の主張する憲法第二一条に基づく反論文掲載請求権は本件広告が名誉毀損でなくとも発生するというものである。しかしながら名誉毀損という違法性を備えた不法行為が発生した場合ではなく、被告に何らの違法性もない場合には被告に責任を負わせることはないというのが近代法の大原則であり、本件の場合で言えば、違法な事態について被告が責任を負わなくてはならぬ場合を除いて、被告は商品である広告スペースの出捐を求められる理由は全くない筈であろう。それにも拘らず原告は被告に対して民事上の請求権として本件反論文の掲載を請求し得るのであると主張するのであるから、原告はその然る所以を十分に示さなければならない。しかしながら原告の主張は前示の通り、直接的な根拠としては前掲の八項目の要件事実の主張のみであり、他には原告が反論できない場合の事実上の不都合の主張のみである。而して右八項目の要件が反論文掲載請求権の根拠としては当裁判所の理解を超えたところであることは前述(本項四)の通りであるから、以下では原告がその他に詳説する間接的な根拠について一々検討してみることとしよう。

五1  〔憲法第二一条の意義及び効力について〕  もつともここではその前に、憲法第二一条の規定が私人間においてどのような効力を有するかという点について検討を要するであろう。

原告は憲法第二一条は私人間においても直接効力を有すると主張するが、元来憲法の人権保障規定は国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等とを保障するためのものであつて、専ら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定しているものではない。これは人権保障規定の歴史的沿革からも明らかであるし、私的自治を尊重すべき立場(私的自治の分野に公権の介入を認めることが直接には私権の庇護を狙いとしていても、長期的に見るとかえつて私権を制約する危険を往々伴つていることを考え合せるべきであろう。)からも言えることである。原告は議会制民主主義に基づいて憲法第二一条についてはこれを特に私人間に直接効力を有する規定であるとする主張もしているが、独自の議論であつて採用し難い。

もつともこのように解したからといつて、私人によつてなされる人権の侵害を放置して顧みなくともよいというものでないことは当然である。人格の尊厳を前提とした人権保障の原理は社会の中に広く実現されなければならず、また現に私人間に容易ならざる人権無視が行なわれていることも否定できないと考えられるからである。私的自治とても無制約なものではなく、公序良俗に反する行為や違法な行為は許されないのであるが、その公序や違法の内容は憲法を頂点とする法秩序全体によつて定まる。してみれば結局、憲法の理念はこのような形で私人間に生かされるということになろう。

2  前述(第二、一)した通り原告は言論・表現の自由に基づいて反論の自由を有しているのであり、被告がこれを妨害した場合には(態様にもよるが)違法と評価されることになろう。原告の反論は誰からも妨げられる筋合はないのである。しかし憲法はこのような形で原告の反論権を保護しているのではあるが、これは既に見た通りあくまでも消極的な保護であつて、何人かに積極的な作為を求める根拠(殊に民事上の請求権)となるべきものではないし、この理は言論・表現の自由の保障の歴史的な沿革からも肯定されるところである。

原告の主張は要するに言論・表現の自由を実質的にも保障せよということに帰するであろう。しかしながらかかる政策の当否を別としても、言論・表現をなさんとする者に対して、極端な例として例えば紙・印刷手段・労力・諸費用等の供給を導出するがごとき解釈が到底採り得ないものであることは明白であろう。

原告は、反論の資力のない者には泣き寝入りを、資力のある者にも反論のために広告スペースの購入を、強いるのは不当であると主張している。確かにその通りであろう。当裁判所もこれを正当であると判示するつもりはない。しかしながら前述(第二、四)した通り、違法な広告を掲載した場合以外には被告が責任を取らねばならぬ道理はない。資本主義社会では、不法行為にならない限り、これらの行為が放任されるのも巳むを得ないと言えよう。もつとも原告の反論の手段はサンケイ紙に対する反論文掲載だけに限られているわけのものではないから、原告に本件広告に対する反論の手段が閉されているわけではない。

ところで原告は、ここで反論の無料掲載を認めないと広告の金権支配や「悪徳商法」に道を開く虞れがあると主張している。被告の主張によれば、被告はサンケイ紙の広告欄を意見広告に開放しているというのであるから、サンケイ紙の広告欄を買い占めることはそれだけの財力を持つ者にとつては容易なことである。即ち被告は何人の如何なる意見であろうともこれが責任ある言論である限り(そして広告料を支払う限り)サンケイの紙面を提供すると表明しており、その際、出稿者が「金権勢力」であるかどうかは被告は判断しない筈であるからである。また現実の問題としても、「金権勢力」に目を付けられ易い新聞とそうでない新聞、体質上「金権勢力」に買い占められ易い新聞とそうでない新聞があり得るであろう。しかしながらいわゆるマス・コミの中で新聞の占める位置は非常に大きいとは言えその全部ではなく、また新聞業界においては発行部数において被告のサンケイ紙を上回る数種の新聞を含む業界全体が激しい販売競争を続けている現実からすると、仮にサンケイ紙の広告欄がその開放方針ゆえに「金権勢力」に支配される事態が考えられるとしても、わが国全体から見た場合には原告の主張するような「言論の自由の圧殺」云々という問題にまでは至らないものと言つて差し支えない。

また原告のいう「悪徳商法」については、前(一、一5)に認定した通り、被告はサンケイ紙上に本件広告を掲載した翌日、すかさず原告方に人を派遣して反論広告の掲載を慫慂しているのであるから、かかる点から判断すると、こと被告の場合には原告の言うような「悪徳商法」も強ち憂とは言い切れない。しかしながら掲載した広告が違法なものでない限り新聞がその広告欄を用いてかかる商法を行なうことも同様に違法とは言えない。それはもはや当該新聞の編集者、発行者そしてこれを購読する読者の良識の問題である。

六〔新聞の公正について〕  そこで原告の主張のうち、今度は新聞の公正ということについて考えてみよう。

1  原告は新聞の多大な影響力に注目してその公平・公正たるべきこと及びその公共性を力説している。ところで新聞が「公正」であるとはどういうことであろうか。一般には「公正」と「公平」とはほぼ同義であろうから同義と見る立場で新聞の主要な機能である報道・論評・広告の三分野について検討してみる。まず「報道について公正」とは、事実を正確にありのままに伝えることであり、内容の取捨選択から表現に至るまで報道の姿勢全般に偏りがないということであろう。ただ、「ありのまま」と言い「偏りなく」と言つても、取材源の制約や取捨選択上の一定の立場から、主観的にはともあれ、必ずしも客観的な真実と公正とは保し得ないことも考えておく必要がある。次に「論評において公正」とは何か。当該論評の内容自体についてはそれは「私はこう思う」と言つている論評者の特定の意見の主観的な開陳であつて客観的な「公正・公平」の概念を容れる余地の少ないものではあろうけれども、それでも不当な人身攻撃や誹謗・中傷にわたらず、かつ表現が相当なものであるということは言えるし、またそれだけではなく、当該新聞がこれに対立する見解にも等しく紙面を割く寛容さを有しているかどうかという諸々の論評に対する取り扱い方によつても決せられることになるであろう。更に新聞が「広告において公正」とはどういうことであろうか。広告それ自体は一般広報的なものを除けば特定の商品又は意見の宣伝であるからそれ自体については客観的「公正」の概念を入れる余地はなく、右論評の場合と同様に全体に対する取扱が公平でなければならないというにとどまるであろう。

ところで本件の場合、被告は本件広告を掲載した後、前記(第一、一5・10)の通り原告に対して反論広告の掲載を慫慂したり、その後の原告との交渉の席上でも原告の負担による反論文掲載という和解案を提示していたのであるから、被告は原告の広告出稿を勧迎するつもりでいたことは明らかである。してみれば被告の意見広告の取扱は公正であると言つてよいであろう。いずれかの当事者に対して広告料金を割り引いたり、逆に釣り上げたりするような事情のない限り、被告は責任ある言論に対しては何人のいかなる意見に対してもその紙面を開放すると言つているのであるから、広告における公平・公正という観点からは正に間然するところのない取扱であると言わねばならない。原告が云々する「悪徳商法」は、この意味では少なくも公平であることが前提をなすものであろう。

2  ところでそもそも新聞は「公正」であるべき義務を負担しているものであろうか。わが国において新聞の報道・評論が公衆に多大な影響を与えることは原告主張の通りであるが、報道の客観性が必ずしも保し難いという論点は一応さて措くとしても、各新聞はそれぞれ独自の立場に基づき、独自の編集方針に則つてその紙面を作つているのであり、不偏不党・公正・中立を標榜するものから、特定の立場・意見・政党に一辺倒の姿勢を取るものまで色々存在しても差し支えないように思われる。原告が引用する新聞倫理綱領等の性格については後に論じるが、新聞倫理綱領が説いているのは一つの理想像であり、これ以外の新聞があつてはならないということではない。もつとも公正でないことを売り物にする新聞はあるまいからそれぞれが「公正」の枠内でその独自性を競うことになろうが、その際の「公正」とは畢竟、主観的に「公正」と信じる立場を取るというに過ぎまい。そして国民はその好むところに従つて適当と判断する新聞を読むことになるであろうし、その間、客観的に公正でない新聞はそれだけの評価しか得られず、やがては淘汰されるであろうが、公正ならざる新聞も言論・出版の自由を等しく享受し得るのであるし、またそうでなくてはならないものであることに思いを致すべきであろう。結局、新聞の公正とは現実の姿としては精々主観的公正に過ぎず、新聞の在るべき姿としての公正はこれを理想として観念するは格別、それを超えて法的義務として理解することは困難と言うべきである。

ちなみに被告のサンケイ紙の場合、その紙面が客観的に公正であると認めるに足りる証拠は必ずしも存しない。もつと被告も例えば広告に関しては一応「公正にして真実をつたえるものでなければならない。」(前記サンケイ新聞広告倫理綱領)と謳つているのであるから、その効果については検討を要しようが、前記の通り「公正」の内容は当該新聞が主観的に公正と判断したことで足りるのであるから、これ以上深入りする必要はない。真の公正さは勿論読者である国民が判断すべきことである。

3 更に原告は新聞は「国民の知る権利」に奉仕すべき義務があると主張しているが、これもどんなものであろうか。国政上重要な事項については国民は知る権利を有しており、新聞は国民に知らせる権利を有しているであろうが、知らせる義務があるとまでは解されない。知る権利の充足を求める国民はこれに応え得る新聞を選択すればよいというだけのことであろう。原告はこの点について、被告が反論文の掲載を拒否し続けているということはサンケイ紙二〇〇万読者等国民の側から見れば国民としての知る権利を奪われていることになると主張するが、これは誤りであつて、本件広告に触発された読者が原告の党綱領と政府綱領提案についてその関係等詳細を知ろうと思えばこれは甚だ容易なことであり、どこからも妨げられる筋合はない。

そればかりではなく、「知る権利」なるものの享有者は勿論国民一般であるから、これが侵害されたというのであれば、国民が、本件の場合にはサンケイ紙の読者一般が、侵害の排除なり知る権利の充足なりを求めるべき筋合であり、第三者である原告が国民に対する被告の義務なるものを主張して、本件反論文の掲載を求めるのは筋違いであろう。仮に報道機関に国民に「知らせる義務」があるとしても、これは報道機関と国民一般の間の問題であり、原告なり他の政党なりが自己の主張を報道・掲載することを民事上請求することの根拠にはなり得ないと言うほかない。

なおこれに関連して原告の被告に対する取材拒否について一言すれば、およそ政権を担当していない政党が特定の報道機関に対してその取材に協力すべき義務があるかどうかはさておき(広報上のチヤンネルを自ら狭めたことやこれによつて当該政党がその政治姿勢を問われることなどの危険は当然当該政党が負担すべきものである。)乙号証中被告の論説の中には、原告の被告に対する取材拒否はサンケイ紙読者の知る権利を奪うものであるとしたものがある(例えば乙第三三号証)が、これの誤りであることも前示の理路から当然である。被告の強調するように多数の新聞の併存する自由主義社会において、仮にサンケイ紙の報道方針やその内容にあき足らぬ読者がいれば、他紙に乗り換えればよいのであつて、その知る権利は何ら侵害されてはいない。国民がサンケイ紙だけによつて主要な情報を得ているのでないことは明らかである。と同時に、知る権利というものは、国民の側から見た場合、坐していて与えられるものではなく、例えば新聞については、多数の新聞を厳しく監視し、督励し、選択する過程の中でおのずから充足されるべきものである。

七〔新聞倫理綱領等の性格〕  次に新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領について考えてみよう。

1  〈証拠〉によれば、新聞倫理綱領は「全国の民主主義的日刊新聞社」が設立した日本新聞協会の指導精神であつて、「日本を民主的平和国家として再建するに当たり、新聞に課せられた使命はまことに重大である。これをもつともすみやかに、かつ効果的に達成するためには、新聞は高い倫理水準を保ち、職業の権威を高め、その機能を完全に発揮しなければならない。」との文章に始まる新聞の倫理基準であることが認められる。また新聞広告倫理綱領及び同細則は、〈証拠〉によれば右の精神を新聞広告について適用・具体化したものであることが認められる。

2  ところでこれらの諸綱領の規範性はどうであろうか。原告はこれら諸綱領は新聞の報道・広告等の許容限度を示す指標であつて、新聞全体の準拠すべき公序良俗の内容をなしているものであると主張する。しかし果してそうであろうか。「倫理綱領」というその名称自体からしてこれらは日本新聞協会の単なる指導精神であつて、法規範たる性質を有しているものと解することは難しいし、更に新聞が自己を束縛する「法」規範を制定する筈がなく、日本新聞協会への加盟も任意制であつて、法律上強制されるものではないことからしても右綱領を法規範と解することはできないとする被告の説明の方が当裁判所にとつては納得し易い一方、原告の主張を支えるに足りる証拠は存しない。そこでもう一度新聞倫理綱領の内容を見ると、これは、前文、第一新聞の自由、第二報道、評論の限界、第三評論の態度、第四公正、第五寛容、第六指導・責任・誇り、第七品格、後文、に分れているが、その第三評論では「訴えんと欲しても、その手段を持たない者に代わつて訴える気概を持つことが肝要である。」とし、第四公正では「非難された者には弁明の機会を与え、誤報はすみやかに取り消し、訂正しなければならない。」とし、第五寛容では「みずから自由を主張すると同時に、他人が主張する自由を認めるという民主主義の原理は、新聞編集の上に明らかに反映されねばならない。おのれの主義主張に反する政策に対しても、ひとしく紹介、報道の紙幅をさくがごとき寛容こそ、まさに民主主義新聞の本領である。」とし、第六指導・責任・誇りでは「新聞が他の企業と区別されるゆえんは、その報道、評論が公衆に多大な影響を与えるからである。」とし、第七品格では「新聞はその有する指導性のゆえに、当然高い気品を必要とする。そして本綱領を実践すること自体が、気品をつくるゆえんである。」としている。

また前記〈証拠〉によれば、新聞広告倫理綱領は、「新聞倫理綱領の精神にのつとり、新聞広告のになう社会的使命を認識して、常に倫理の向上と健全な発達に努め、もつて公衆の信頼にこたえなければならない。」とした上、その具体的な内容として「1 新聞広告は、品位を重んじ、責任の負えるものでなければならない。」、「3 新聞広告は、他の名誉を傷つけ、あるいは不快な印象を与えるものであつてはならない。」、「4 新聞広告は、虚偽誇大な広告により、読者に不利益を与えるものであつてはならない。」等と定めているものであることが認められる。

かように眺めてみると、右の両綱領に盛られた理念の高尚、品性の清潔には思わず襟を正させられる程であり、これらは到底原告の主張するような新聞全体の準拠すべき「最低の基準」ではなく、これ以上の理想はあり得ない「最高の基準」である。すべての新聞の記事、広告がこれらの綱領に忠実であるとしたら、およそ新聞に関するトラブルはあり得ないであろう。従つてかかる倫理上の指針を楯にとつて特定の記事や広告がこれに副わないことから直ちに掲載者の法的な責任を問うのは失当であるとせざるを得ない。

3  ところで日本新聞協会は昭和五一年五月一九日、前述した新聞広告倫理綱領及び同細則に代えて、新しい新聞広告倫理綱領及び新広告掲載基準を制定した(右事実は〈証拠〉によつて認められる)。新広告倫理綱領は本文と真実、品位、合法性の三項目から成つていて、旧綱領にあつた「新聞倫理綱領にのつとり」との文言や、「責任の負えるものでなければならない。」、「報道の自由をおかすものであつてはならない。」との項目が削除されたほか、「制定の趣旨」として広告内容に関する責任は一切広告主にあることや、本綱領は法的拘束力を持つものではないことを述べている。

要するに右新綱領は、広告内容に関する責任の明確化、新聞の編集方針と広告掲載方針の分離、広告の有料性と報道記事との相違を強調したもので、その成立自体に本件原被告間の仮処分訴訟及び本案訴訟が色濃く投影したものであることは明らかであろう。ここではこれ以上立ち入る必要はないが、広告内容が法令に違反するなどして不法行為に該当する場合には、新聞も掲載者として共同不法行為責任を問われるものであるということは言うまでもない。

八〔旧新聞紙法及び放送法〕  次に原告は旧新聞紙法第一七条や放送法第四条を援用するので、これを検討してみよう。しかしながら右新聞紙法は既に廃止されたものであり、その正誤権の意義を原告の如く高く評価するか否かは総て立法論であつて、解釈論としては採ることを得ないものである。また現行の放送法第四条第一項には確かに原告のいうような規定が存する。しかしこれについても本件への類推は必ずしも適当でない。即ち放送は国家の免許を受けて有限な公共の電波を独占使用するものであつて、その業務内容について国家の監督を受けるだけでなく、新聞の如く自己の意見・論評等を言論機関として発表する機能を有していないのであつて、放送法第四条は国家の監督権に基づく規定と見るべきものであるからである。これに対して新聞の場合には一切が全く自由であり、かかる国家の監督権とは無縁のものであるから、放送と同視すること自体が妥当でない。従つて右規定の存在は、原告が、私法上の請求権として、しかも取消や訂正でなく一方的に定めた「反論」の全部をそのまま掲載することを求め得る根拠となるものではない。

九〔諸外国の法制について〕 最後に諸外国の立法例を見よう。日本新聞協会の編纂にかかることにいずれも争いのない〈証拠〉によれば、ドイツ国(諸州)及びフランス国を中心とする西欧諸国中には新聞の記事に対して関係人が反論文、弁駁文を掲載することを求める権利を法律上制度化しているところが少なくないこと、その代表的な例はドイツ国諸州とフランス国であるが、その対象・反論掲載義務者・掲載請求手続等は右両国においても制度上相当異つていること、他方米国においては、かかる反論権を認めている一、二の州がないではないが、全体的には概ね否定的に解されていることを認定することができる。しかしながら当面の問題のためには、右のように反論権を制度化している諸国はすべてこれを特別法によつている事実が認められることを指摘すれば足りるであろう。不法行為等違法にわたる場合の事後処理は格別として、新聞は本来商品であるスペースの出捐をその意に反して強制される筋合ではないのであり、かかる強制を制度化するには法律の明文によつてあらかじめ要件を明らかにすることを要すると解するのが正しい。かかる法律の根拠なくして国民の財産権(ここでは新聞の紙面)を侵害することは許されないと言うほかはない。

一〇〔反論権の効果及び反論の必要性〕  こうして見ると、原告が種々論ずる諸々の間接的根拠も原告の反論権を理由づけることには無力であつたと言わざるを得ない。原告の主張はもはや立法論であつて、言論の自由に関する現行法の解釈としていわゆる反論権を引き出そうとするのは不可能と言うべきであろう。

他に原告は反論権を認めるべき理由として、或いはわが国における新聞の集中・独占化状況を力説して一方的な情報のみが流される危険性を主張し、或いは攻撃を受けた者の被害の救済の必要性を強調している。

しかし前者について言えば、一方的な情報のみが流されてそのような世論が形成されることの危険性は原告主張の通りであろうが、原告の主張する反論権にしてもその要件として特定の相手方を名指しにすること、回答を求めるとみなされる体裁をとつていること等が必要(原告の主張する前記八項目要件)というのであるから、本件広告のような特殊な場合を除いては、報道の公正さを担保するために反論権が機能する余地は殆どないことになろう。換言すれば、原告主張の反論権は原告の憂慮するような事態を防止するのには無力なのである。

また後者について言えば、原告がここでいう反論権を、相手の攻撃的意見が名誉毀損に至らなくても成立するものであるとしながら、本件広告について「歪曲」、「信用毀損」、「活動妨害」等の表現を用いて非難していることからも明らかな通り、原告の主張は結局本件広告が違法であり、原告はこれによつて侵害を受けた被害者であるということを前提にしたものである点を問い直す必要があろう。果して本件広告は原告の政治的信頼を傷つけ、その政治活動を妨害したものであろうか。前(第二、三)にも触れた通り、およそ意見である以上対立が前提であり、論難的なものに走る傾向があるのはある程度当然予測できることであるばかりでなく、日頃から言論を通じて厳しく対立している政党相互の間にあつては尚更のことである。このようなことは国民の間でもはや常識であるが、この対立関係を念頭において本件広告を見た場合、本件広告によつて原告の社会的評価が低下(いわゆるイメージ・ダウン)したとか、原告に同一紙上で是非とも反論しなければならない切実な必要が生じたとは言えないのではなかろうか。従つて他党にかかわる意見広告においてはその品位と公正とがより一層担保されなければならないという原告の主張にも俄かに賛同することができない。こう言つたからとて政党間論争の泥仕合を勧める意味合は毛頭ないが、要するにその限度は良識の問題であつて、法解釈論の埓を超えるものである。但し意見広告の場合には、当該広告の内容如何によつて出稿者側自身の品性も読者によつて判断されているものであることは附言しておいてよいであろう。

一一〔本節の結論〕  結局ここでの原告の主張は、解釈権としては採り得ず、これを実践しようとすれば(その当否はともかく)、特別の立法に依るほかはない。なお本件乙号証の論考の中には、言論の自由は「言いたくないことは言わせない自由」も含むものであり、反論の掲載を法律上強制するのは憲法違反であるとするもの(例えば乙第一一〇号証)があるが、ここでの反論は当該新聞自身の意見・評論として表明させるわけではなく、反論したい者のためにその商品である広告スペースの一部の出捐を求めるに過ぎないものである(被告の場合被告自身の方針と相容れない主義・主張でも広告としては掲載することは被告が明言するところである。)から、右の所論は当つていない。また広告媒体が広告料収入を得られないことによる経済的損失は、公共の福祉の考え方にもよるが、制度自身の運用如何によつても、然るべき基金を設ける等の方法によつても、解決できるであろう。むしろ被告が主張するように、かかる反論はその対象が有料の広告のみでなく、報道・論評等一切の掲載記事に及ぶものである(但し制度の内容による。)ため、新聞の自由、編集の自由が後退萎縮する虞れがあるという議論の方が違憲論として説得力を有する。しかしながら被告とても新聞の自由は道義上はもとより法律上も一切の斬捨御免を恣にさせるとか、或いは反論権が制度化されている前記西欧諸国の新聞は萎縮しているとかの主張をなすものでないことは明らかであるから、これも反論権を有し得る場合の要件を十分に絞ることによつて解決されるであろう。もつとも、かように言つても、当裁判所としては反論権を厳格な要件の下に制度化してこれを憲法違反とまで言う必要はないと考えるだけであつて、立法の当否は自ら別問題である。

第三人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権

一〔妨害排除請求の性格〕  次に原告の主張する人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権について検討することとしよう。

原告は人格権侵害については不法行為上の金銭賠償・回復処分にとどまらず、妨害排除請求権等の差止請求権も認められるべきものであり、その法源は条理に求められるべきものであるから、人格権及び条理の存在と働きによつて原告の反論文の掲載の必要性及び正当性が承認されるのであると主張している。しかし考えてみると、政党の如き団体にも人格権が認められるのはよいとしても、元来妨害排除請求権というものは現に継続する違法な侵害行為の排除・停止を求めるものであつて、本件広告のように過去の一回きりの行為に対して「差止」を求めるというのは不可解と言わなくてはならない。原告は本件広告によつて受けた被害が継続していると主張するもののようであるが、それは総ての不法行為について言えることであり、およそあらゆる不法行為の被害はそれが回復されるまでは続いているのであるから、原告主張の理路を辿れば、すべての過去の侵害行為に対して事後の「差止」が可能であることにもなり、事後の金銭賠償を原則としたわが不法行為法の体系が崩壊しかねない。

二〔本節の結論〕  それだけではなく、そもそもその「違法な侵害行為」自体が問題である。原告が人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権は名誉毀損に至らなくとも成立すると主張しながらかかる表現を用い、或いは後に述べるような名誉毀損の際の主張と全く同様の「政治的信頼が傷つけられた」という文言を使つていることからすると、原告のここでの主張も要するに本件広告が違法であるとの前提に立つものであり、従つて次の不法行為(名誉毀損)の主張にそのまま連なるものであろう。換言すれば原告自体、名誉毀損に至らない場合の人格権と条理とに基づいた反論文掲載請求権の論拠の弱さを自認しているのではないかと考えられるのである。結局、原告のこの主張も採用することができない。確かに民事裁判においては、法規がないという理由で裁判所は判断を趣けることはできないのであつて、かかる場合には条理を勘案しても裁判をしなければならないのであるが、これは事案の内容に立ち入つた実体的判断をしなければならないとの謂であつて、原告を救済しなければならないとの意味でないことは当然である。

なお附言するに、原告はここで「被告は、人格権と条理の相重なる部分に成立した義務によつて、原告の反論文掲載申込に応じてこれをサンケイ紙上に掲載しなければならない。」と主張するのであるが、この「人格権と条理の相重なる部分に成立した義務」なるものは、その意味が曖昧で、語義通りには当裁判所の理解を超えるところがあり、当否を判断するに由ない。

三〔(附)引換給付の可能性〕  もうひとつ附言しなければならないのは次の点である。即ち本訴訟において、原告は被告に対して本件反論文をサンケイ紙上に無料で掲載することを求め、被告はこれを拒んでいるのであるが、仮に原告が然るべき広告料を支払うことを約して反論広告の掲載を求め、かつ被告がこれを拒否した場合はどうであろうか。この場合には、かねて責任ある言論であるならば(そして広告料を支払うならば)編集方針と関わりなく掲載することを明言してきた被告としては、これを拒否することは、一般に新聞は広告を含めて全部の記事についてその掲載に関する取捨選択権を持つているとされているわが国の新聞界にあつても、許されないであろう。かねて前記のような広告欄開放の方針を標榜し、自らこれを高く評価してきた被告としては、その方針に従つた申入に対してはこれを拒否する権利を予め一括して放棄したも同然であり、特定の申込者に対して何らかの理由を持ち出してその掲載申込を拒否することは権利の濫用と判断してよいであろう。これを条理の一つの現われとしてもよい。換言すれば条理はこのように機能する一方、本件の原被告間で条理によつて処理できるのは、反論広告の正当な掲載申入に対してこれを拒むことは許されないというところが限界であると考えられる。

ところで本件の場合、原告は被告に対して本件反論文を無料で掲載することを求め、被告は前記(第一、一)の原告との交渉経過によつても明らかな如く、原告が広告料を負担するなら原告の反論を掲載するが、無償掲載には応じられないと主張してきたのである。してみれば広告掲載契約の成否の問題を別にすれば、本件において原告の本訴請求に対して然るべき広告料の支払と引換に被告に対して本件反論文の掲載を命ずることも十分可能であろう。しかしながら弁論の全趣旨に徴し、原告はみずから費用を負担してその反論文の掲載を求めることは本件広告の追認、合法化になるとしてこれを断じて受け入れられないものと主張していることが明らかである。要するに原告の本件の訴旨は無料の(換言すれば被告負担の)本件反論文掲載の可否如何というその一点に関わつていることが極めて明瞭であると言えよう。よつてこの点の判断については、これ以上立ち入らないこととする。

第四不法行為に基づく反論文掲載請求権について

一〔不法行為の内容〕  さて最後に、本件広告につき不法行為の成否について検討してみよう。

原告は、被告が本件広告を掲載頒布したこと及び反論文の無料掲載を原告に対して保障する意思なくして本件広告を掲載頒布したことはいずれも不法行為を構成すると主張している。してみれば原告の主張によれば「反論文の無料掲載を原告に対して保障する意思なくして」の部分はあつてもなくても本件広告の掲載頒布による不法行為の成否に影響を及ぼさないことになるのであるから、この部分は捨象して考えることができよう。そこで本件広告が原告に対する名誉毀損を構成するかどうかという点を判断しなければならない。

二〔本件広告の狙い〕  前述した通り、本件広告は出稿者である自民党が原告の告綱領と政府綱領提案との間には矛盾があると難じたものであり、更に本件広告中の「多くの国民は不安の目で見ています。」、政府綱領提案は「プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりに過ぎないのではないか?」との文言があること、出稿者名が「自由社会を守る」自由民主党となつていること、本件広告の右半分に歪んだ顔の大きなイラストが配されていることからすると、本件広告の狙いは党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があるということの指摘だけではなく、これによつて原告の政府綱領提案は「たんなる足がかり、革命への踏み台」に過ぎないというアピールを行なうものであり、その趣旨は、何故多くの国民が「不安の目」で見ているのかというと、原告が党綱領と政府綱領提案との関係について国民に嘘をついているから、また原告が政府綱領提案を「踏み台」に「革命」を達成した後には国民の自由は失われるからである、というに帰する。要するに本件広告の訴求テーマは「国民は政府綱領提案という原告の甘言にだまされてはならない」ということに尽きるであろう。本件広告の原案にあつた「ギマン者、羊の皮をかぶつたオオカミ」という表現は端的にそれを示したものと言える。

かくして本件広告はサンケイ紙の読者に対し、原告の党綱領と政府綱領提案との間には矛盾があり、原告の行動には「疑問」、「不安」があることを強く訴えて原告の社会的評価を低下させることを狙つたものであることが明らかである。

三〔政党・政策批判と名誉毀損との調整〕  そこで本件広告は現実に原告に対する名誉毀損を構成するか否かという点と名誉毀損が成立する場合これに対する被告の責任如何という点の判断に進むわけであるが、その前に本件における主要な一争点である言論の自由に基づく政党・政策批判と名誉毀損等不法行為との関係について一言しておく必要がある。

1  〔新聞広告の自由とその限界〕  思うに、原告の如き法人格を有しない団体であつても、社会生活上独立した存在としてはその名誉が保護されなければならないこと言はうまでもないが、他方被告の如き報道機関の紙面も、民主主義社会にあつては国民の国政関与について極めて重要な情報を提供するという重大な役割を担つているだけでなく、紙上に他人の各種の意見を広告として掲載する自由も憲法第二一条の言論・表現の自由の一部をなすものとして同様に厚く保護されなければならない。殊に右の後者については、表現の自由につき国民に対してその貴重な媒体を提供しているという意味からも、広告の自由が軽視されてはならない。原告は広告における表現の自由は極めて高価なものであり、すべての国民に開放されているわけではないと主張するが、およそ何らかの表現の手段で経費・労力を全く要しないものはあり得ないのであつて表現の「自由」とはそういうものである。してみればその内容には種々の手段が含まれるが、ある程度の経費を要する新聞広告も当然許される筋合である。むしろ自由主義社会において、私企業としての新聞を認める以上、広告に経費を要するのは自明のことであり、必要経費だけの負担で国民一般にその意見を表明する機会を公平に与えているのであれば、これを「開放」と称するのは一向に差し支えない。原告は意見広告は媒体である新聞にとつては営業の一環に過ぎないと主張するが、媒体を利用する国民にとつては意見広告は表現の自由の一環として保護を受けられぬ道理はない。従つて意見広告の掲載者たる新聞にも相応の保護が考えられてよいであろう。

この他に原告は新聞広告の特殊性を強調して、意見広告の危険性を主張する。しかしながら前(第二、四)にも述べ、或いは後にも述べる通り、当該広告が不法行為を構成する等違法な場合には、出稿者及び掲載者は当然民事上もその責任を問われることになるが、違法にわたらぬ場合は、その内容の問題点や或いは原告の憂慮する紙面の「買占め」等はもはや良識の問題であつて、裁判所の関与する限りではないのである。

2  〔政党相互間の批判論争の性質〕  さて、わが憲法は国民主権の原理を基本としているのであるから、国民は国政及び地方政治に参加する権利を有しているのであるが、これは具体的には政党の政策・政治活動や政党相互間の論争・批判活動を知ることによつて、自らの政治に関する意見を形成し、政党の政策・政治活動を支持又は批判し、これに即した意見を表明して、自ら活動し、或いは国会なり地方議会なりの議員を選出することであるから、国民に対して政党の政策・政治活動及び政党相互間の論争・批判を報道し、論評し、かつ国民にこれに対する意見を表明する機会を提供する新聞の責任は誠に重大であつて、その自由は十分に保護されなければならないことは言うまでもない。

ところで政党は本来、それぞれが自己の掲げる綱領に基づいてその政治上の主義・目的を国政・地方政治に実現するために、不断に国民に対して宣伝・勧誘等の働きかけをなしてその支持者・同調者・党員を獲得して組織を形成拡大し、かつ選挙における活動を通じて議会における議席を獲得し、これによつて自党の意見・政策を国民の政治的意思形成に反映させ、国民・住民代表として政治を担当することを目的として相互に競争し闘争を続けているものである。即ち政党の本質は競争・闘争する団体であり、これは政治上の主義・施策の争いであるから、その闘争は言論・文書によつて行なわれるわけであるが、そのため政党相互間の論争・批判は、相手方の主義・綱領・政策・活動等の誤謬・矛盾・欠陥を暴露し、攻撃して自己の意見・政策を宣伝することとなるのが常であつて、必然的にその表現は辛辣、痛烈となり、往々にして感情的、侮辱的、中傷的にも流れ易いものである。従つて、前記の新聞の自由に基づく政党に対する論争・批判を掲載する自由と政党の名誉保護との調整について考えておく必要がある。

3  〔政党批判が名誉毀損となる要件〕  政党は、前記の通り、直接国政に関わり、その政策・活動が国民の生活・権利・自由等に多大な影響を及ぼすものであるから、極めて高度の公共性を有するものである。およそあらゆる政党は本来は特定の立場・利益・階級の代弁者であつてその本質は「私的結社」と言うべきものであるにも拘らず、「公党」と称される所以である。しかも政党の他党に対する批判・論評は単に自党のためだけではなく、国民一般に政党の政策・活動に対する認識を深め、国民の「知る権利」やその自由な政治的意思決定に奉仕するものであること、そして殊に政府与党に対する批判・論評はその施策の抑制ともなり得るものであることを考えると、政党はむしろ相互に他党に対する批判に努め、かつ他党からの批判には謙虚に耳を傾ける道義上の責務を負つているものと言つてよいであろう。従つて他党からの批判の中にその名誉を毀損するような点があつたとしても、議会という公の場や日常の政治活動の場における公の論議に依り、対立政党や国民の前に自己の政治的見解を明らかにする過程を通じて再批判・反駁するのが筋である、と言わざるを得ないのである。

従つてかかる政策や政治的姿勢に対する論争・批判が当該政党に対する名誉毀損を構成するか否かを判断するにあたつては、(一)これが故意に又は真偽について全く無関心な態度で虚偽の事実を公表することによつてなされたものであるか否か、及び(二)その内容や表現が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的であつて社会通念上到底是認し得ないものであるか否か、という二点を重要な基準とし、一見政党に対する名誉毀損が成立するが如き場合であつても、右二要件を吟味して、これらがいずれも否定された場合には該名誉毀損は結局成立しないものとするのが相当である。そして、更に、(三)一般に他を批判・攻撃した論評については、名誉毀損の成立を免れるためにはそれが公益を目的としたものであることの証明も必要であると考えられるが、政党批判の場合には、前述のような政党の公共性や政党批判の持つ意義に鑑みて、特段の事情のない限り、公益を目的とするものであると推認してよいであろう。

4  〔右要件の主張〕  右の三基準は、不法行為の責任を問われて名誉毀損の成立自体を争う側で主張立証すべき要件と言い得るが、本件において被告は、刑法第二三〇条ノ二の法意やいわゆる「公正な論評」ないし「現実的悪意」の法理を援用して名誉毀損の不成立を主張しているので、実質上右三要件の主張ありと見るに十分である。

四〔本件名誉毀損の成否〕 以上の議論を前提とした上で、本件広告が名誉毀損として不法行為を構成するかどうかという点を判断することとする。

1  まず本件広告中、党綱領と政府綱領提案とを比較対照した部分であるが、前述の通り、要約の仕方に正確性を欠く点があるにしても、引用されている文言自体はそれぞれ党綱領及び政府綱領提案の中の文言そのままであり、原告の主張していないことを主張しているとしたものではない。原告はこの部分は故意に要点を外し、自説に都合の良い部分のみを引用したものであると主張するが、引用の仕方が党綱領及び政府綱領提案のそれぞれの文脈に忠実には従つていない部分があるにせよ、「要点を外した」と言える程のものではない。また自説に都合のよい部分のみを云々という点については、ある程度そうであろうけれども、対立政党間ではこの程度のことは批判・論評の際の常套手段であつて、少くとも原告が発表した政策の中の文言である以上、名誉毀損を構成するような事実の歪曲があるとすることはできない。対立政党間で互いに相手側の最大の弱点や国民に誤解されかねない点を攻撃するのは常識であり、しかもこれは今に始まつたことではない。原告側としていやしくも一旦前記の如き表現を用いた以上、このように引用されても巳むを得ないのではなかろうか。

2  次に本件広告中右対照表を前提に党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があるとした部分であるが、この「矛盾」は出稿者が矛盾と感じたものであるから、一つの意見として如何ともし難い。広告文中では「矛盾している、と私たちは考えます。」となつているが、要するに出稿者の意見としては矛盾があると断定しているものとしてよいであろう。一方原告にとつては前記(第一、二3)の通り、党綱領と政府綱領提案とは全く性格の異なるものであつて、毫も矛盾などしておらぬものであろう。しかしこのことと箇々の国民が党綱領と政府綱領提案とを読んでどう感じるかということは全く別ものである。原告が党綱領と政府綱領提案との関係を如何に解明してきたとしても、国民全体の間に隈なく浸透させることなどは最初から不可能であり、右両者が矛盾していると考える者は当然残るであろうし、それを口に出して言う者もいるであろう。そして彼らの言論も保護されるべきであることは言うまでもない。かかる意見の発表にあたつては、それが的中しているか的外れであるかは問題とならないのである。そして仮に的外れであるならばそういう意見を発表した者自体の認識が問われるまでであろう。意見広告の場合は勿論その読者である国民が判断すべきことである。従つて矛盾があると考える者が矛盾があると言つたことをもつて内容の虚偽又は表現の誹謗中傷を云々することは論理に飛躍があるというべきである。

なおこれは党綱領と政府綱領提案との関係について原告が解明のための努力を十分払つてきたか否かということとは全く関係がない。原告の解明の有無に拘らず、原告の政策に対して誰もが論評の自由を有しているのであつて、原告が自ら十分解明したつもりであつても、だからといつてこれに対する論評・批判・攻撃を封じることは許されないからである。原告は「言論の自由」を強調するが、「言論の自由」とは本来「自己に敵対する言論の自由」を眼目とすることを思うべきである。

3  次に本件広告冒頭の「はつきりさせてください。」という文言であるが、これは本件広告中の政府綱領提案は「プロレタリア独裁(執権)へ移行するための単なる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないか?」との文言、従つて「国民は不安の目で見ています」との文言を受けているものであるが、「はつきりさせて下さい。」は前記の通り、原告の政府綱領提案をめぐる行動に「疑問」、「不安」のあることを前提としている。即ち原告は政府綱領提案の目的や党綱領との関係について明確な解答を示していないということを言つているのであり、換言すれば読者にかかる印象を与えるものであろう。しかしながら前記(第一、二4)の通り、原告は政党として政府綱領提案という重大な政策を発表する以上、これについて国民の間に十分な解明をなす責任を負つている。もとより原告はそのための努力を相当程度払つてきたことであろうが、前(本項2)にも述べた通りこれを国民の中に完全に浸透させることなどは到底不可能であつて、言い換えればいくら解明してもそれで十分ということはあり得ない。政党の政策を批判する側も、まずそれに関する諸文献を精査することが望ましいではあろうが、精査した後でなければ批判を発し得ないものでないことは言うまでもない。原告は「はつきりさせて下さい。」という見出しは原告に対する中傷であると主張するが、名誉毀損の成否という観点から見た場合には、同様の表現がサンケイ紙ではなく、原告と対立関係にある他党の機関紙にあつた場合でも、広く頒布されるものである以上、同様に名誉毀損であるとせざをを得ないであろう。しかしそのような論断は許されないのであつて(原告も自民党がその機関紙を用いて原告に政策・理論闘争を挑むのであれば正面から受けて立つ意向であつたことは前記甲第二四号証によつても認められる。)、してみれば当の文言がサンケイ紙上にある場合も同様ではなかろうか。従つてこの「はつきりさせてください。」が名誉毀損を構成する誹謗中傷であるとすることはできず、前記の事情から、事実の点でも表現の点でも名誉毀損にはならないものと解される。

実際原告としても、政府綱領提案のような重大な政策を発表すれば、一方では多数の支持を得られる反面、原告と日頃から厳しく対立している諸勢力からはこれに対して批判・非難・攻撃が殺到するものであることは予測していたのであろう。

4  次に本件広告文中の「他の政党や新聞の社説のなかに、疑問と不安を表明しているところもあります。」との文言については、〈証拠〉によつて事実に符合しているものと認める。

また「多くの国民は不安の目で見ています」及び「国民の多くが、その点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」という文言中の「多く」という言葉は、これが国民の大多数という意味であるなら勿論出稿者の独断であるけれども、一般にかかる政党広告においては「多く」の国民が「わが党」を支持している程度の表現は強調のための言葉の綾であつて、敢てその真偽を確定する必要はない。

5  最後に本件広告のイラストであるが、これは、その形状及び配置並びに本件広告内容との総合的関連からは、前記(第一、二4)の通り、原告ないしその主張について「バラバラ、支離滅裂、矛盾」との念を喚起することを狙つたと認められるものであるから、現にそのように理解する読者もいるであろう。

右イラストはその侮蔑的な要素によつて原告の構成員やその支持者に対しては侮辱されたとの感を抱かせるものであるが、その表現自体は、確かに際どい点はあるものの、やはり未だこの程度では原告の政治的信頼を傷つけ、その政治活動を妨害したと言うには足りず、結局本件広告を表現上著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的なものにしたものではないと考えられる。

もつとも右イラストは本件広告自体にいささか不真自面なものであるとの印象を与えて本件広告の出稿者の品位はもとより、その掲載者である被告のサンケイ紙自身の品格を低下させる虞れをも有するものであるが、これは被告がその発行する新聞の公正・品位をどう考えているか、そして読者のレベルをどの程度に考えているかということに帰する問題であつて、名誉毀損に至らない以上、当裁判所が関与するところではない。

6  本件広告を実質的に構成する各部分についての検討の結果は以上の通りであるが、ここでなお、これらを総合した上での判断に及ぶ必要があろう。蓋し、本件広告は上記の各部分を平板に羅列しているのではなく、イラストと対照表及び広告文とを中にして、右側に一番大きい活字で「はつきりさせて下さい」と大書し、末尾には同じ大きさの活字で字体を変えて「自由民主党」と広告主名を表示し、その上に「自由社会を守る」と付加し、冒頭には一段小さく、しかし本文よりは大きい活字で「前略 日本共産党殿」と表示するなど、各種の字体各様の号数の活字を駆使しつつ、各部分を広告スペース中に配列し、これらを有機的に一体化して全体として一個の意見広告を構成するよう、いわゆるレイアウトを行なつているのであつて、殊にイラストの存在は、これなき場合に比し、一層その全体としての視覚的効果を強めている面があることを看過できないので(別紙第一目録参照)、前記各構成部分の個別的検討だけでは不十分と考えられるからである。

しかしながら、右の見地から見直しても、本件広告によつて原告の名誉が毀損されたことを肯定するには至らない。確かに本件広告は甚だ巧妙に作られており、個々的には事実において虚偽とも或いは表現において著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的とも言えない各構成部分を組み合せて、一見原告に呼び掛け、論争を挑むかのような体裁を取りつつ、実は国民の前に原告を攻撃するという狙いを実現したものであることは明らかであるが、前示(第二、三)したような政党間論争に関する国民の常識を念頭に置く限り、これによつて公党としての原告の名誉が傷ついたとは考えられないからである。

五〔本節の結論〕  結局、本件広告は原告に対する名誉毀損を構成しないものと判断されるので、原告の本訴請求のうち、被告の不法行為を主張して本件論文の掲載を求める部分も理由がないことになろう。

なお当裁判所は、民法第七二三条の「適当ナル処分」には場合によつては反論文の掲載も含まれるものであり、その反論広告は必ずしも当初の名誉毀損広告と同じ大きさとは限らず、「適当」な処分という以上、掲載場所が被害者にとつて不利な所であればかえつて大きくしても差し支えはなく、また同様に「適当」な処分でなければならないことから、裁判所はその内容に対して当然介入し得るものであると思料するものであるが、本件広告については名誉毀損の成立が否定されたのであるから、これ以上この問題に立入る必要はない。

第五結論

一〔意見広告とマス・コミの責任〕  以上の次第であるから、原告の本訴請求は結局現行法の範囲内では如何ようにも許されないものである。繰り返してきた通り、違法の段階に至らない行為は法の世界では当然許容されるのであり、後はもはや良識の問題である。そして新聞の場合には、報道も評論も、而して広告の場合にはその出稿者も含めて、これに関与した当事者の見識が問われ続けているのであり、読者である国民が最終的に判断すべきことである。

思うに、相手方の批判・攻撃ということは民主主義社会の根幹をなすものであるが、勿論行き過ぎは許されないのであり、本件広告については、当裁判所もその内容の構成や全体の品位に関しては決して誉めたものであるとは考えていない。しかしながら前示の通り違法と断じ得ない以上、裁判所として介入する限りではないと考えるものである。

原告はマス・コミの責任を云々するが、これはもはや法律上の問題ではないし、他方、本件広告の掲載申込を受けた諸新聞のうち、わが国の民意を反映していると見られる数紙を含む朝日・毎日・読売・東京の諸紙が、「特定の政党を批難する内容である」、「誹謗・中傷ではないと断定できない。」、「(自己の)意見の表明ではない。」、「若干穏当を欠く表現であり、新聞のスペースが他を攻撃したり、泥仕合の場になることは困る。」という理由を表明して、本件広告の掲載を拒否したことは前記(第一、一4)の通りであるが、(これらの理由が表向きのものでなく、その真意であるならば)ここに紙面の公正と品位を虞る前記諸紙の見識を見ることができるであろう。

他方、その内容の如何に拘らず、責任ある言論である限り紙面を開放して意見発表の機会を提供し、内容には介入しないという被告の方針も誠に一貫した論理である。これはまたこれで立派に筋の通つた一見識と言えようが、その是非はもはや当裁判所の判断すべき限りではない。しかしながら前記乙第一四号証ないし第一六号証に見る如く、前記朝日・読売・毎日の諸紙は、意見広告の掲載にあたつては、意見が対立を前提にしたものであることからその掲載の基準として「表現が妥当なもの」(朝日)、「他を中傷、ひぼうしないもの」(毎日)、「他社を不当に中傷、ひぼう(誹謗)するもの」(は掲載を留保する)(読売)としていることが認められる。被告の意見広告掲載運用規則にかかる規定はないが、本件広告の如く特定の他人を相手とするような広告の場合には、表現にも意を用いて無用の摩擦を事前に防止することが望まれると言えよう。

二〔大尾〕  ともあれ当裁判所の本訴請求に対する判断は以上に述べたところに尽きるのであつて、原告の本訴請求はこれを結局理由がないものとして棄却するのが相当であると信じ、訴訟費用の負担については敗訴当事者である原告の負担に帰せしめることとして、主文の通り判決した次第である。

(倉田卓次 井筒宏成 西野喜一)

別紙第二目録〈省略〉

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